2011年3月2日水曜日

武士道(続)(20110302)

 徳川幕府末期、欧米列強諸国がアジアを侵食し、我が国の安全が脅かされ、国運が傾きつつある時、坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛らの働きにより、我が国は内戦に至ることなく政権は朝廷に奉還され、「広く会議を興し、万機公論に決すべし。」(明治元年に天皇が発布した『五ヵ条の御誓文』の第一)のお言葉のとおり、武家による政治体制から新しい政府による民主的な政治体制に移行した。

 坂本龍馬は日本人同士が戦って血を流し合うような事態になることは絶対に避けようと努力した。しかしそのような内戦によってひと儲けし、あわよくばこの日本を支配しようと意図する外国の勢力の動きもあって凶刃に倒れた。龍馬は、勝海舟及び西郷隆盛の両者と日本国のあるべき形について同じ志を抱いていた。

江戸幕府の実権を委ねられていた勝海舟と、武力をもって江戸幕府を倒すという選択肢を残しながらも錦の御旗を掲げる薩長軍の参謀として、軍を江戸城に接近させた西郷隆盛の両英雄は、江戸を戦火の海にしてしまうことは望まなかった。明治元年(1868)411日、両英雄は高輪の薩摩藩邸で会見し、江戸城を無血明け渡しに導いた。

『武士道』第13章「刀」――なぜ武士の魂なのか、という箇所で、新渡戸稲造は「刀は忠誠と名誉の象徴」「武人の究極の理想は平和」「負けるが勝ち」「血を見ない勝利こそ最善の勝利」と、武士道精神の本質が何であるかということについて強調している。武力はやむにやまれず最後の手段としてこれを用いる。それが最善であると言っている。事実、西郷隆盛や、勝海舟や坂本龍馬の生きざまは、全くそのとおりであった。

日本は、昭和208月、史上初めて外国人に征服された。そこに至る根本原因は、日本の自衛にあった。自衛のため戦い、泥沼にはまり、蟻地獄のような事態に陥り、もがけばもがくほど深みにはまってしまった。そのことは大いに反省しなければならぬ。


しかし、日本は自衛のため武力を行使したが、外国を植民地にしようなどという野望は全くなかった。秀吉の朝鮮出兵もスペイン・ポルトガルによるキリスト教を利用したアジア侵食を防ぐためであった。

中国がモンゴル人の皇帝による元王朝、漢人がその王朝の官僚であったとき、我が国は2度も大軍をもって攻め込まれている。元軍は、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人(朝鮮人)などで構成されていた。高麗はモンゴルの服属王国であった。時の執権・北絛時宗は鎌倉武士団と九州の武士団を指揮し、台風と言う天佑もあってこれを防ぐことできた。

今でも共産党一党独裁の「王朝」のような中国の官僚は、明、清の時代でもそうであったように大中華思想の凝り固まっており、日本を見下した(がって)いる。平気で沖縄・奄美は中国の領土であると言い、あの手この手で我が国から知的財産を奪い、盗もうとしている。表の柔和な表情とは裏腹に、腹の底では日本を陥れる策略を練っている。朝鮮半島、特に北朝鮮はその中国の大中華思想のもと、人びとの心の深奥では小中華思想に染まっている。支配者層と被支配者層の段差が大きい政治体制はいつまで続くことか?

人民のレベルでは、お互い心通わせ合うものがあるが、政治のレベルでは日本に敵対している。そのことを今の時代の「武士」は心しておくことが重要である。

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