2011年3月11日金曜日

武士道(続)(20110311)

 武士道は、士農工商の身分の最上位にある士族の精神を形成していた非常に強力な道徳の体系であった。それは、士族の家庭で受け継がれ、士族の社会の中で維持され、士族の子弟が藩校や私塾で教えられていた精神的な徳目によって形作られていたものであった。

武士道の衰退について、新渡戸稲造は次のように言っている。“功利主義や唯物論者の損得勘定の哲学は、魂を半分しかない屁理屈屋が好むところである。功利主義や唯物論に対抗できる他の唯一の道徳体系は、キリスト教である。キリスト教とくらべるならば、今、武士道は「わずかに燃えている灯芯」のようなものである、と正直にいわざるをえない。”(新渡戸稲造『武士道』、奈良本辰也訳・解説、三笠書房「知的生き方文庫」)――と。

その「わずかに燃えている灯芯」のような武士道は、昭和20年(1945年)8月、日本が戦争に敗れた時点でほぼ完全に廃れてしまった。それまでは、小学生の時から覚えさせられた『教育勅語』が、キリスト教の『聖書』やイスラム教の『コーラン』のような働きをして、武士道の徳目が日本人の精神の中に維持されていた。

武士道は宗教ではない。宗教ではないから聖書やコーランなどの教典はない。宗教が国体の維持に利用されている国々では、宗派間の争いが絶えないが、我が国ではそのような争いはない。聖徳太子の昔から「和を以って尊しと為す」であった我が国では、武士道がキリスト教圏やイスラム教圏の国々の宗教の代わりをしたと言える。

『教育勅語』を読むと、「忠」「孝」「億兆心を一(いつ)に」「美」「国体の精華」「父母に孝に」「兄弟(けいてい)に友(ゆう)に」「夫婦相和し」「朋友相信じ」「恭倹己を持(じ)し」「博愛衆に及ぼし」「学を修め」「業を習い」「智能を啓発」「徳器を成就(じょうじゅ)し」「進んで公益を広め」「国憲を重んじ」「国法に遵(したが)い」「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」「爾(なんじ)祖先の遺風を顕彰」など、武士道の徳目を表す語が並んでいる。

明治維新後、士農工商の身分差は完全に撤廃された。士農工商の下に置かれた身分の人たちの中からも国会議員になり、要職に就いた方も多数出るようになった。戦前までは、『教育勅語』が、昔の「士」分の役割を担っている人びとの精神を一定の水準に保つ役割を果たしていたが、今の時代、そのようなものはない。あるのは常識的な倫理観だけである。

今の時代、昔の「武士」の役割を担っている人びとは、どのような人びとであろうか?それは、国会議員や、官僚や、地方議会議員や、地方自治体の職員や、末尾に「官」が付く職業の人びとなどでないのか?これらの人びとは昔の「武士」の役割を担っているが、そのような人びとの倫理観は「常識的なもの」で良いとして、個々人の資質に委ねるだけで良いのだろうか?昔の「武士道」のようなものは全く不要であろうか?『教育勅語』の復活は必要なのではないだろうか?

思想や信教の自由が保障されているわが国で、『教育勅語』の復活は議論の俎上にも上がらないであろう。それならば、心ある人たちが、それら昔の「武士」の役割を担っている人びとに、武士道に対する関心を持ってもらうように行動を起こすしかないだろう。

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