2011年3月8日火曜日

武士道(続)(20110308)

 吉田松陰は、刑死前、次の歌をしたためた。

   かくすればかくなるもとと知りながら やむにやまれぬ大和魂
   身はたとひ武蔵の野辺に朽(くち)ぬとも 留(とどめ)置(おか)まし大和魂

 大和魂は、細長い島国、少ない平野、多い河川、そのような地形の中で発達した農耕・採集・漁業、春夏秋冬、万世一系の皇統、神道、仏教など大陸諸国とは異なる日本独自の諸状況の中で自然に生じた日本独自の精神である。この精神は、哲学的・論理的な体系を持っていない。それゆえに、この大和魂の本義は、「武士」が居なくなり、武士道が重んじられなくなると次第に色あせたものになってしまった。

 明治維新は、“武士道以外に道徳的教訓をまったく知ることのない”(新渡戸稲造著・奈良本辰也訳・三笠書房『武士道』172ページ)「武士」たちによって成し遂げられた。明治時代の日本人の精神には、「武士」やその子孫たちの影響が強く残っていた。しかし、大正になり昭和になり、戦争に敗れてこの国が異民族に征服されてしまった時点で、武士道は完全に過去のものとなってしまった。

 しかし、時代が変わり自由民主主義精神のもとで国家公務員や地方公務員になることができた人びと、選挙で選ばれて国会議員や地方議会議員になった人びと、公職の末尾に‘官’が付く職務に就いている人びと、公務員である教職員、法律に基づき承認された教育機関に雇用されている教職員などは、今の時代の「武士」である。これら今の時代の「武士」たちの道徳的規範となる、今の時代にふさわしい新しい精神、「(新)大和魂」が、哲学的・論理的な体系として作り上げられるべきである。(新)大和魂の復活が必要である。

 日本のように八百万の神々がましまし、仏教が日常の暮らしの中に根付いている国では、かつて「武士道」があったような、何か力強い道徳的な規範を蘇らせる必要がある。キリスト教やイスラム教などのように一神教の国では、それなりの道徳的な規範がその国の人びとの精神構造の基礎にある。

一神教は、他の宗教や宗派に対して寛容ではない。それが、世界の平和の障害になっている。逆に、いまの日本には「武士道」が完全に廃れ、それに代わるべき日本の精神は構築されていない。それが、将来、世界の秩序を乱す原因を作ることになるかもしれない。

 その一つの現象は既に起きている。それは、鳩山元首相が全く「武士」らしくない言動をしたために起きている日米・日露・日中の外交問題である。また小沢氏にまつわる「金と政治」の問題である。また、一部の地方自治体の首長たちが、国全体のことよりも地方のことばかりに目をむけ、己が勢力の拡大を図っていることなどである。いずれも「謙虚の欠如」「力への依存」など、人類共通の「他を差別したい」という本性に根ざしている。

 この国の精神の状況を憂い、いろいろ発言している方々は多い。しかし、それらの方々の発言は、それぞれの‘点’での発言でしかない。それらの発言が、この国を正しく導く精神、「(新)大和魂」を蘇らせるような、何かの仕掛けが必要ではないかと思う。

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