2011年2月25日金曜日

武士道(続)(20110225)

 新渡戸稲造『武士道』(奈良本辰也訳・解説、三笠書房刊)より、Mitford Tales of Old Japan”「切腹」部分全文引用。Mitfordは、下記七人の外国人検視役の一人であった。

「われわれ(七人の外国使節団)は、日本側の検視役に先導されて、その寺院の本堂へ招じ入れられた。ここで切腹の儀式が行われることになっているのである。その儀式はまことに堂々としていて、忘れ得ぬ光景であった。

本堂の屋根は高く、黒ずんだ柱で支えられていた。天井からは仏教寺院特有の巨大な金色の灯篭や、飾りがたくさん垂れ下がっていた。正面の一段高く仏壇の前には、床から三、四寸高くなっている座が設けられている。そこには美しい新畳が敷かれ、赤い毛氈(もうせん)がのべられていた。等間隔にならんでいる丈の高い燭台はほの暗く、神秘的な光を放っていた。それはここで行われることの進行を見守るには十分な明るさであった。七人の日本人検視役が切腹の座に向かって右側に、七人の外国人検視役は左側に着席した。そのほかには誰もこの場所に居合わせる者はいなかった。

心落ち着かない数分が過ぎ、やがてたくましい32歳になる偉丈夫、滝善三郎(備前岡山藩士。同藩家老日置忠尚の乗った輿(こし)が神戸の外国人居留地を通過した際に起きた事件で、外国の圧力に屈した新政府から家老は謹慎、家老の警備責任者であった善三郎は自刃を命じられた。辞世は後に記す。)が、静々と本堂に歩を運んできた。

彼はこの儀式のために麻の裃(かみしも)に身を包んでいた。彼は一人の‘介錯’人と金糸の縫いとりのついた陣羽織を着た三人の役人をつき従えていた。‘介錯’という言葉は英語のexcutioner(処刑人)とは同義語ではない、ということをまずことわっておかなければならない。その役目は立派な身分がある者が行う。たいていは切腹する者の一族か、友人によって行われる。

この両者の関係は、犠牲者と処刑人という関係ではない。むしろ主役と脇役という関係である。今回の‘介錯’は滝善三郎の弟子の一人であった。彼は剣の達人だということで朋輩から選ばれたのであった。

やがて‘介錯’を左に従えて、滝善三郎はやおら日本人検視役のほうへ進み出た。二人は検視役に向かって丁重に辞儀をして、ついで外国人検視役のほうに近づいて、同様に一段と丁重な挨拶をした。どちらの検視役もおごそかな答礼でこたえた。

そこで、この咎人(とがにん)はゆっくり威風あたりを払う態度で切腹の高座に上り、正面の仏壇にニ度礼拝をしてから仏壇に背を向け、毛氈の上に正座した。‘介錯’は彼の左側にうずくまった。三人の付添いの役人のうち、一人が神仏に献げるときに用いる台――三宝をもって前に進み出た。その三宝には白紙で包まれた‘脇差し’がのせられている。‘脇差し’とは日本の短刀、もしくは匕首(あいくち)のことである。長さはおよそ九寸五分、切っ先と刃はカミソリのように鋭い。役人はこの三宝を咎人に手渡し、一礼した。善三郎は三宝を両手で頭の高さまで捧げ、うやうやしく受けとって、自分の前に置いた。(続く)

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