2011年2月18日金曜日

武士道(続)(20110218)

 「人は何のために死ねるか」「日本人の忠義とはいったい何か」というサブタイトルで、新渡戸稲造は「忠義」について論じている。もともと『武士道』は欧米人に対し、日本の精神を紹介するため英語で執筆されているので、欧米人が理解しやすいように欧米の著名な人物とその言葉や聖書の言葉を引用して論じている。

 結論から言うと、新渡戸稲造は「武士道では個人よりも国を重んじる」とし、「西洋の個人主義は父と子、夫と妻に対してそれぞれ個別の利害を認めている。したがって人が他に対して負っている義務は著しく軽減している。しかし武士道においては、一族の利害とその個々の成員の利害は一体不可分であるとする」と断じ、「サムライの真の‘忠義’」について、シェイクスピアの悲劇『リア王』の作中の人物・ケント公がリア王を諌めたように、ある事柄に関して、家臣であるあるサムライが誠意をこめ、真心をもって主君を諌めるとき、「もしそのことが容れられないときは、そのサムライは自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをすることはごく普通のことであった。生命はここに主君に仕える手段とさえ考えられ、その至高の姿は名誉あるべきものとされたのである。サムライのすべての教育や訓練はこのことにもとづいて行われたのである」と言っている。

 この日本という国は、神代の昔から天皇を中心に一家をなすような国である。「天皇」「白地に赤い日の丸の国旗」「‘君が世’の国歌」は、日本人の心の深奥にあるものであって、それは日本人の「自分自身(セルフ)」そのものである。はるか昔この国に海を越えて渡って来た帰化人を先祖に持つ人びとも、皆、同胞(はらから、同じ母から生まれた子供)である。125年、1夫婦の子供2人の条件で指数計算をすると、1000年後1兆人となる。皆血が混じり合い、誰一人として純粋な血の者はいない。

50代・桓武天皇は白壁王(後の第49代・光仁天皇)の第一皇子であるが、ご生母の出自は身分の低い帰化系氏族の出である。桓武天皇の御代、主に朝鮮半島からの渡って来た多くの帰化人が天皇から氏姓を賜っている。

 最高裁で争われることになるが、「思想・信教の自由」の権利を掲げて国旗・国歌に敬意を表せず、子供たちに偏向教育をしている教職員は、法に基づき処罰されて当然である。彼らは、この日本の国で様々な恩恵を受けているにも関わらず反国家的な行動をしている。権利ばかりを主張し、義務を果たそうとしない。そもそも、「君が代」の「君」は天皇のことではない。天皇は古来「大君(おおきみ)」と呼ばれてきた。「君が代」の「君」は、この国の民一人ひとりのことである。

 今の時代の「武士」の役割を担っている人たちの中に不見識な連中がいる。日本国籍を有している者は、誰でも今の時代の「武士」になることができるのである。「武士道」について知れば知るほど、日本国籍を有しない者に「武士」の役割を担わせ、見返りの「権限」や「特権」を与えようとすることは絶対に間違っていると思う。

0 件のコメント: