2011年3月12日土曜日

武士道(続)(20110312)

 新渡戸稲造は英語で書いた著書(訳・解説:奈良本辰也、三笠書房)『武士道』を、最後は、一片の詩、クエーカー教徒・Whittier, John Greenleaf の作“Snow-Bound”の最後の四節を引用して締めくくっている。その前に、幾つかの重要なことを言っている。それは次の言葉である。

“武士道の余命はあといくばくもないかのようである。その予兆となる、かんばしくない兆候が大気中に瀰漫(びまん)しはじめている。いや、徴候のみならず、あなどりがたい諸勢力が武士道をおびやかすべく動きはじめている。”

 “めざましいデモクラシーの滔々(とうとう)たる流れは、それだけで武士道の残滓(ざんし)をのみこんでしまうに十分な勢いをもっている。民主主義はいかなる形式、いかなる形態の特権集団をも認めない。だが武士道はじつのところ知性と文化を十分貯えた権力を独占しした人びとによって組織された特権集団の精神であった。”

 “武士道は一つの独立した道徳の掟として消滅するかもしれない。しかしその力はこの地上から消え去ることはない。”

 “その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。しかしその光と栄誉はその廃墟(はいきょ)を超えて蘇生するにちがいない。”

 今の時代、「武士道」という言葉で、上記「その光と栄誉」を蘇らせることはできない。しかし、今の時代にふさわしい言葉を探さねばならない。「人士」という言葉は、教育や地位のある人を意味する。ならば「人士道」はどうであろうか?

 政治家、官僚、公務員、裁判官、大学教授、小中高校教師、自衛官などそれぞれの法律に基づき「官」が付く職にある人びとなどは「人士」である。民主主義が発達した今の時代、これらの人びとは、昔の「武士」の役割を担っている。これらの人びとは、バッジとか階級章とか肩書などで、それぞれ相応の身分があり、人びとの間で一定の尊敬を受けている。そのように考えれば、武士のため武士道があったように、「人士」のため「人士道」があってもよい。いや、それがあるべきである。

 武士道には、一つの独立した道徳の掟があった。同様に、これら「人士」のため、世間とは少し違う道徳の掟があってしかるべきである。それが無いからおかしなことが起きる。たとえば、東京都の公務員である一部の教師が、卒業式などのとき国歌斉唱をしなかったり、国旗掲揚時に起立しなかったりしたことは、「信教の自由」というだけで処罰されないという東京高裁の判決が出た。東京高裁の裁判官は、それら教師たちは自らの思想信条を守るため行動したから、都教委の処罰は不当であったと判決した。それは正しいのか?

 民主党の土肥隆一衆議院議員が韓国で「竹島は日本の領土との認識は変わりはないが、日韓双方の主張があり、韓国の主張にも納得できる部分がある」ので、「竹島は日本の領土であると主張しない」という日韓両国国会議員共同宣言の文書に署名したという。当然のことながら彼は非難され、責任をとって政倫審会長などの職を辞した。これなども「人士道」がないため起きた事件である。「人士道」は今後築いてゆくべきことである。

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