2011年2月27日日曜日

武士道(続)(20110227)

 新渡戸稲造は「知的生き方文庫」『武士道』(奈良本辰也訳・解説、三笠書房刊)の中で、「切腹」についてもう一つの例をあげている。ここにその全文を引用する。

「左近と内記という、それぞれ24歳と17歳になる兄弟が父の仇を討つべく、家康を襲おうとした。しかし無念にも家康の陣屋に突入する前に捕らわれてしまった。家康は彼の命を狙った若者たちの勇敢さを讃え、彼らに名誉ある死を与えるように命じた。

 この刑の宣告は、兄弟の一族すべての男子に命ぜられたので、二人の若者の末弟であるわずか八歳の八麿も同じ運命であることをいいわたされた。そしてこの三名は処刑が行われることになっている寺へ引き立てられていった。その場に立ち会った医者がその一部始終を日記に残している。そこには次のような情景が書かれている。

 「最期の時を迎え、三人が一列に着席したとき、左近は末なる弟に向かい、『八麿よりまず腹を切られい。切損じなきよう見届けてくれよう』といった。幼い弟は答えて、いまだ『切腹』を見たことがないので、兄たちの作法を見て、その後につづきたい、と申し述べた。二人の兄は涙ながら微笑んで『よくぞ申した。それでこそわれらが父の子なるぞ』といった。そこで二人の間に末弟八麿を座らせ、左近は自分の腹の左側に短刀を突き刺していった。

 『見よや八麿、会得せしか。あまり深く掻くべからず。仰向けに倒れるがゆえに。前に俯伏(うつぶ)せ、膝を崩すべからず』

 内記も同様に腹に刃を突き刺しながらいった。『目を刮(かつ)と開けよや。さもなくば女の死顔に似たるぞ。切先(きっさき)が腸(はらわた)に触るとも、力たわむとも、勇を鼓して引きまわせ』と。八麿は二人の兄を交互に見た。二人とも果てると、八麿は静かに上体を露わにして、両側から教えられた範に従って従容として死に就いた」

 「武士道における生きる勇気と死ぬ勇気」というサブタイトルで、新渡戸稲造は言う。もっとも悲しむべきことは、名誉にも「計算」がつきまとっていたことである。
真のサムライにとっては、いたずらに死に急ぐことや死を恋いこがれることは卑怯と同義であった。 
あらゆる困苦、逆境にも忍耐と高潔な心をもって立ち向かう。これが武士道の教えであった。それは孟子が教えたとおりのことであった。「天の将(まさ)に大任をこの人に降(くだ)さんとするや、必ず先(ま)ずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓やし、その身を空乏し、行い其の為(な)すところに払乱せしむ。心を動かし、性を忍び、その能(あた)わざるところを曾益(ぞうえき)せしむる所以なり」(「告子章句」下一七五)
真の名誉とは、天の命ずるところをまっとうするにある。そのためには死を招いても不名誉とはされない。天が与えようとしているものを避けるための死は、卑怯きわまりない。

 戦艦大和の最後の片道燃料の出撃、硫黄島の玉砕などについて、それを命じた側の海軍軍令部や大本営に勤めていた参謀たちは、武士道精神に照らしてどうであったか?

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