2011年3月13日日曜日

武士道(終わり)(20110313)

東日本大地震で亡くなられた方々が1万人を超えそうである。被災者の数も数10万人を超えそうである。未曾有の大災害が起きた。その哀しみ・苦しみを分かち合いたい。
  「武士道」というタイトルで、今年126日以来今日(2011311日)まで毎日、新渡戸稲造著、奈良本辰也訳・解説、三笠書房「知的生き方文庫」の『武士道』を読みながら、このブログの記事を書いてきた。これは、自分自身の勉強であった。そして、辿りついた結論は、著者自身が言うように、“(武士道)の武勇や文徳の教訓は解体”されたが、“その光と栄誉”は、未だに失われていず、サッカーのザッケローニ監督が武士道に関心を持っているように、日本人の間に、“(武士道は)象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれた後、人生を豊かにする芳香を運んで”きている、ということである。

 問題は、今の時代、昔の「武士」の「役割」を担っている人びとの中には、そのことに気づかず、過ちを犯しているということである。その最たるものは、次世代の日本人の教育を担う教師たちの一部に、彼らが所属する日教組の幹部の思想の影響を受けて、教育の現場で日本の国旗や国歌に敬意を表さず、純粋無垢の子供たちに間違った思想を植え付けようとしていることである。これは絶対に許されることではない!

 この教師たちが教育委員会から処罰されたことを不服として裁判に訴え、昨日、東京高等裁判所が1審の東京地裁の判決を変更し、「(国歌斉唱の際の不起立は)正しい教育を行いたいなどとする信念に基づくもので、式典の進行が阻害されたとは言えない」という判断で、原告の一人を除いて処分を取り消した。但し、賠償請求は棄却した。

 教師らには、何を基準に「正しい教育を行いたい」という信念があったのか?子供たちに国旗に対して敬意を表さないということが、正しい教育なのか?国旗は、日本国の象徴ではないのか?彼らは、独善的な考え方で、国旗の由来は日本国民の意にそぐわないものが勝手に決められたとでも言いたいのか?東京高裁の判断は誠に遺憾である。

 小中高校教師も裁判官も、昔の「武士」と同じ「役割」を担っているのである。彼らが昔の「武士」と同じ徳目を重要視していないから、そのような結果になったのである。都はただちに上告し、最高裁の判断を仰ぐべきである。

 新渡戸稲造は、『武士道』解題によれば、1898年(明治31年)、彼が37歳の時、アメリカに滞在中に英文で書いたものであるという。原題は“Bushido The Soul of Japan”というものである。新渡戸稲造自身、武家の出身で、南部藩士・新渡戸十次郎の三男であった。一方、訳・解説者の奈良本辰也氏は“私の生家は、武士と名のつく家ではない。しかし、それでも外国で私の受けた道徳教育などについて語れ、と言われたら、武士道の教えのようなものを話しだすかもしれない。”とその本の中で語っている。ちなみに、奈良本辰也氏は、1913年山口県生まれで、京都大学文学部国史専攻卒業された方である。言うなれば、氏は、今の時代の「武士」である。

 今の時代、それぞれの人びとの出自は一切関係ない。先祖がどうであろうと、また、かつて外国籍であろうと全く関係ない。誰でも、今の時代の「武士」になることができる。「武士道」に代わる、例えば「人士道」のようなものが是非確立されなければならないと思う。

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