2011年3月5日土曜日

武士道(続)(20110305)

今の時代、女性が社会において活躍することは大いに望まれていることである。しかし、その一方で、女性の本来あるべき姿が軽んぜられ、相対的に男性がその気質、振る舞いにおいて中性化、あるいは女性化するとなるとこれまた大いに疑問である。

最も望ましいのは、社会で活躍したい女性のために十分にその願望を叶えてやれるような社会の構造や環境である。具体的には、有能な高学歴の女性を企業が採用するとき、本人の希望、あるいは心の深奥の願望に一切配慮することなく、ただ企業側の論理、男性の論理だけで、例えば「女性は‘秘書職’、男性は‘総合職’」と決めてかかるような風潮があるとすれば、それは改められなければならない。

さらに、社会として最も考慮するべきことは、社会で活躍したい女性が子供を産んでも、そのハンディがなく十分活躍することができるような環境を整備することである。例えば職場に隣接した場所に保育所があるとか、産児休暇をとっても昇進や基本給には影響がないとか、実際に子供を産んで育てている若い女性たちの希望・心の深奥の願望を引き出して、女性が満足するような環境を、国をあげて整備することである。

昔は、「男は男らしく、女は女らしく」ということが強調されていた。しかし、今の時代は多様性がより多く強調されている。それは非常に良いことである。しかし、我々は「多様性」と「無秩序」とをよく切り分けて考えなければならない。「多様性」の根底には、何時の時代でも変わらない普遍的な真理があるのである。

新渡戸稲造は、『武士道』(奈良本辰也 訳・解説、三笠書房)の中で、豊臣政権末期の武将・木村村重の妻が自害前書いた手紙の文を引用し、こう書いている。ちなみに、A級戦犯として処刑された元内閣総理大臣・外務大臣・広田弘毅の妻は、自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えて自害し、夫に先立ち他界している。

“女性が夫、家、そして家族のために、わが生命を引き渡すようなことは、男が主君と国のために身を棄てることと同様に、みずからの意志にもとづくものであって、かつ名誉あることとされた。自己否定――これなくしては女性の人生の謎を解く鍵は見あたらない。それは、男性の忠義同様に女性が家を治めることの基調であった。女性が男性の奴隷でなかったことは、その夫が封建君主の奴隷ではなかったことと同じである。妻たちが果たした役目は「内助」の功として認められた。妻女たちは奉公の上り階段に立っている。彼女は夫のために自己を棄て、夫はそれによって主君のために自己を棄て、最後に主君は天に従うことができるというわけである。”

“武士道はそれ自体の基準をもっていた。それは二項方程式であった。つまり、女性の価値を戦場と家庭の、双方で測ろうとしたのだ。戦場においては、女性はまったく重んじられることがなかった。だが家庭においては完全であった。・・(中略)・・妻、あるいは母としては、女性は最高の尊敬と深い愛情を受けていた。

いつの時代でも、夫と妻、父と母、それぞれの「役割」の自覚は、非常に重要である。

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