2011年2月26日土曜日

武士道(続)(20110226)

 再度、丁重な辞儀を繰り返した後、善三郎は次のように口上を述べた。その声には痛ましい告白をする人から予想される程度の感情の高ぶりと躊躇が表れてはいたが、その顔色や物腰には少しもそのような様子が見受けられなかった。

 ‘拙者はただ一人、無分別にも誤って神戸において外国人に対し、発砲の命を下し、その逃れんとするを見て、再度(ふたたび)撃ちかけしめ候。拙者今、その罪を負いて切腹致す。各々方には検視の御役目御苦労に存じおり候’

 再度の一礼ののち、善三郎は裃(かみしも)を帯のあたりまで脱ぎさげ、上半身を露(あら)わにした。慣例どおり。注意深く彼はその袖を膝の下へ敷きこみ、後方へ倒れないようにした。身分のある日本の武人は前向けに倒れて死ぬものとされていたからである。

 善三郎はおもむろに、しっかりした手つきで、前に置かれた短刀をとりあげた。ひととき彼はそれをさもいとおしい物であるかのようにながめた。最期のときのために、彼はしばらくの間、考えを集中しているかのように見えた。

 そして、善三郎はその短刀で左の腹下を強く突き刺し、次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きをかえてやや上方へ切りあげた。このすさまじい苦痛にみちた動作を行う間中、彼は顔の筋ひとつも動かさなかった。短刀を引き抜いた善三郎はやおら前方に身を傾け、首を差し出した。そのとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。だが、声はなかった。

 その瞬間、それまで善三郎のそばにうずくまって、事の次第を細大もらさず見つめていた‘介錯’が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。

 一閃、重々しくあたりの空気を引き裂くような音、どうとばかりに倒れる物体。太刀の一撃でたちまち首と胴体は切り離れた。

 堂内寂として声なく、ただわれわれの面前にあるもはや生命を失った肉塊から、どくどくと流れ出る血潮の恐ろしげな音が聞こえるだけであった。一瞬前まで勇者として礼儀正しい偉丈夫はかくも無残に変わり果てたのだ。それは見るも恐ろしい光景であった。

 ‘介錯’は低く一礼し、あらかじめ用意された白紙で刀をぬぐい、切腹の座から引下きさがった。血塗られた短刀は、仕置きの血の証拠として、おごそかにもち去られた。

 それから‘ミカド’の政府の検視役二人は座を立ち、外国の検視役の座っているところへ近づき、滝善三郎の死の処分が滞りなく遂行されたことをあらためられたい、と申し述べた。
 儀式は終わり、われわれは寺を後にした。」
滝善三郎辞世(同上の本、注より引用)
  幾(き)のふみし 夢は今更引きかへて 神戸が宇良に 名をやあけなむ
今の時代の「武士」の役割を担う海上保安官であった一色正春氏は、国の為尖閣ビデオを公開し、国家公務員としての罪に服し、「退官」という今の時代の「切腹」をしたのである。

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