2011年2月22日火曜日

武士道(続)(20110222)

 国会討論をちょっと視聴した。自民党の平沢議員が、民主党の参議院議員比例区代表で当選した某議員が、JR総連出身で革マル派某氏の運転手であったことについて質問し、枝野幹事長や北沢防衛大臣や中野国家委員長や与謝野特命担当大臣が答弁していた。この種の質問・答弁は昨年11月にも行われている。

 政治家を目指す者は、いろいろなバックグラウンドによる支援を頼みにせざるを得ない。ただ、政治家を目指す目的が、反国家的、反社会的な活動を行うことであってはならない。公安調査庁は、法務省の外局としてそのような活動に対して目を光らせていると信じるが、果たして十分機能しているのだろうか?

国会議員の定数削減のことについてはあまり関心が持たれず、公務員の2割削減のことが大きく取り上げられている。国家公務員は、必要なところに必要な人数、十分訓練されて配置されなければならない。国民の安心・安全にかかわる部署・組織に従事している公務員を、一律に削減するというのであれば、それは非常に大きな問題がある。

 新渡戸稲造の『武士道』に面白いことが書かれている。それは、「父親はその威厳を犠牲にして、子を抱くことはできなかった。夫はその妻に口づけをすることはできなかった。私室ではともかく、人前ではなしえなかったのである。ある機知に富んだ青年は‘アメリカ人の夫は人前で妻に口づけをして、私室で打つ。しかし日本人の夫は人前で妻を打って、私室では口づけをする’といった。この比喩の中にはいくらかの真実があるかもしれない」という部分である。

 今の時代、列車を待つホームや、混み合った列車内でキスをしている若者を見かける。周りの人びとは、内心‘みっともない’と思いながらそれを見て見ぬふりをしている。今の時代の日本人は、「恥」の観念が昔と変わってきている。

 国会中継を見ていると、一部の政治家たちは品のない野次や怒声を飛ばし、卑しい仕草や表情を見せている。テレビカメラが入ると、彼らは選挙区向けにパフォーマンスをしているのだろうか? 彼らは、国の事よりも何よりも、議員バッジを付け続けることのほうが大事なのである。国会議員という職業を失いたくないのである。パフォーマンスを「恥」と思っていないのである。

そのように、国会議員であることを職業としているような連中のために国家予算を浪費することは非常に馬鹿げている。同じことは地方議会でも言える。「職業議員」を一掃しなければ、この国の未来は危うい。愛知県や名古屋市や阿久根市で来ていることは、人びとの声なき声の現われである。国民は既成政党に嫌気がさしてきている。

人びとは「恥」を「恥」と意識できる国会議員、地方議員を、心の深奥で求めている。人びとは、今の時代にふさわしい「武士」の「役割」を担う人びとを求めている。それは、無意識的な願望である。名古屋市長・愛知県知事のコンビは、ピエロのように見えるが、そのコンビを実現させたのは、人びとのそのような無意識の現われである。

0 件のコメント: