2010年2月26日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(35(20100226)

 豊田リコール問題で豊田社長がアメリカの議会で証言台に立った。問題発生の責任を率直に認め、謝罪し、今後の取り組みへの決意を誠実に述べたことは良かった。しかし自分自身が副社長のときブレーキ不具合に関する情報を知らなかったと言い、改善に向けての社内体制等については言及しなかった。このことについて一部の議員から批判が出ている。

 豊田社長は公聴会のあとアメリカの社員たちの前で「私はひとりではない。素晴らしい仲間たちがいる」と涙ながらスピーチした。件の問題は創業家の豊田氏が社長に就任後表面化したものであるが、このように問題が大きくなる前ある役員は「ブレーキシステムには問題がない」と言う趣旨のことを述べていた。豊田氏はアメリカの議会で会社の役員たちの責任に一切触れなかったがそのことが一部の議員が不満に思っていることかもしれない。彼が役員たちの責任に触れないまでも、「一切の責任は自分にある」と言えば、そのような議員たちの不満を少しでもそらすことが出来たのかもしれない。

 ところで昨日載せたことば258番の詩に出て来る「賢者」とは訳注によれば、何でもかんでも知っている物知り博士という意味ではなく、人生の真理を体得している人という意味であるとのことであり、「智者」も同義であるとのことである。

 「体得」は『広辞苑』によれば「十分会得して自分のものにすること。」とある。そして「会得」とは「意味をよく理解して自分のものにすること。」とある。技を身につける場合何でもそうであるが、先ず「会得」し、同じことを繰り返し鍛錬して、初めて「体得」できる。

 野球のイチロー選手など卓越したスポーツ選手は、技を体得しているから自然に合理的に身体が反応するのである。「・・・ありたい。」という願望の段階ではまだ体得まで至っていないのである。オリンピックでマスコミはファンの期待をこめて、まだ体得まで至っていない選手に対しても過大な期待をかけてテレビで放映し新聞誌上で書きたてる。しかし自分の実力を一番良く知っているのは当の選手たち本人である。

259 多くを説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人、かれこそ道を実践している人である。

 生後の教育が重要であることは間違いないが、生後の教育だけではどうにもならないものがあると感じる。「身をもって真理を見」「道からはずれることが無い」人は、その素質を生まれながらにして持っている人だと思う。創業家の豊田社長は「顧客第一」と述べた。技術的見解よりも、実際に車を運転している顧客の身になって物事を考え、問題を処理するため骨身を削る努力をする。これがすんなりとできる人はその資質の7割ぐらいを生まれながらにして持っているのだと思う。人物を見分けるには直感が重要であると思う。