2010年2月23日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(32(20100223)

242 不品行は婦女の汚(けが)れである。もの惜しみは、恵みを与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。
243 この汚(けが)れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明(むみょう)こそ最大の汚れである。修業僧らよ、この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。

昨日に引き続き第十八章「汚れ」である。上の243番目の詩に「無明」という言葉がある。これは、『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)によると、「無知であって、四諦や縁起の道理を知らないこと。仏教の根本思想としての世界観や人生観に通じないこと。」であり、この反対は「正見」である。(「正見」について関連記事:「2010213日土曜日、ブッダ「真理のことば」を学ぶ(22(20100213)」)
四諦とは「①苦諦・・自覚なき苦脳の現実世界、②集諦・・現実世界の原因・理由、③滅諦・・自覚ある理想世界、④道諦・・理想世界の原因・理由」のことである。『般若心経』にある「無苦集滅道」はこの四諦も無いということである。
この「苦集滅道」を『仏教要語の基礎知識』には「人びとの精神的病気である苦脳をいやすことを例にとり、「・・凡夫の現実の状態・・病状」「・・現実の苦の原因・・病因」「・・自覚ある理想状態・・健康態」「・・理想への手段方法・・治病健康法」と説明している。これは一番わかりやすいと思う。
縁起とは「種々の条件によって現象が起こる起こり方の原理」とある。「現象は無常であり、常に生滅変化するものであるが、その変化は無軌道的なものでなく、一定の条件のもとでは一定の動きかたをするものであるとして、その動きの法則を縁起という。」とある。
日本語における「縁起」は仏教本来の意味の縁起が転訛したものであって、「縁起」という仏教本来の意味を理解していないと仏教という「人間の学」の入口がわからないと思う。
声を出して一心不乱に『般若心経』を唱えれば、自ずから自然に自分自身が宇宙の一部であるような気持ちになる。そういう中で自分自身は日常の暮らしや起居動作の中に何かの原因を作っている。しかも日常の言語動作を自分自身はいちいち細かく意識しながら行っているわけではなく、無意識のうちに言語動作していることのほうが圧倒的に多い。人はそれを習慣で行ったり、生まれつきの性格に起因するものであると言ったりするだろう。つまり、私は自分自身のことを判っているようで、実は判っていないのだ。判っている部分はごく限られた小さなもので、殆ど判っていないのだ。自分が無知であることを知る。
長崎県知事も町田市長も民主党が応援する候補が大差で敗れた。それでも小沢氏は「国民は(自分のことを)理解してくれる。」と言っている。「国民の目線」と言いながら実際の行動の結果は「国民の(自分自身気がつかない心のうち)の願いに外れるもの」になる。
政治家は「独善的」になり、「自分の理想」を、何が何でも実現させることに「生き甲斐」を感じる者であるのかもしれない。しかし「うちに孕んだ矛盾」はいずれはじける。

0 件のコメント: