2010年2月24日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(33(20100224)

 第十八章「汚れ」は235番目から255番目までの詩があるが、次の二つの詩を取り上げて次の章に移ることにする。

252 他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。
253 他人の過失を探し求め、常に怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。

 男の手元に『NHK市民大学ラジオ「釈迦とその弟子」』のテキストがある。これは、19881月から再放送されたもので、10回まである。全部聴いたかどうか記憶には残っていないが、以来折に触れこのテキストを取りだしては読んできた。このテキストにはブッダ(=お釈迦さま、釈尊)の若き日から入滅までのことが書かれている。講師は駒澤大学教授奈良泰明である。このテキストを読むと約2500年前の釈尊のことが目に浮かぶようである。
勿論それは空想にすぎない。実際に自分がそのとき釈尊のお傍にいたわけではないのだから。しかし人は意識をそのような遠い過去までさかのぼらせることができるし、逆に遠い未来に自分の意識を働かせることもできる。この自分の肉体は時間の経過とともに徐々に朽ちてゆくのであるが、自分の魂はその意味で永遠である。

 テレビを見ていたら関東のある田舎で、婦人たちが餅を作っていた。この餅の始めは江戸時代にあった飢饉を乗り越えるため、皆が力を合わせて手元にあった食材を活かした餅を飢えをしのぐ食べ物として作ったものである。ある婦人は「これを次の世代が受け継いでもらうようにしたい」と言っていた。ある伝統的なものを次世代に引き継いでもらうことは、やがてこの世から消えて行く者としての生きがいである。人はそのようにして自分が前の世代から受け継いだものを守り、次の世代に引き継いでもらうように努力する。その行為は独りではできない。誰か協力者がいたり、仲間がいたり、社会的な仕組みがあったりする。組織でもそれは同じである。単独の組織だけでは継続できない。

 たまたま見たテレビ番組で航空自衛隊の二人の若い少尉(と言いたいが、‘若い三等空尉’)が戦闘機パイロットに育ってゆく状況が放映されていた。二人は共に25歳、一人は防衛大学校出、もう一人は操縦学生出身である。二人は厳しい訓練と試験を経てようやく、家族が見守る式典で航空団司令からウイングマークを胸につけて貰っていた。次は実戦航空団に配属されF15-DJのパイロットになる訓練を受け、実戦配置に就くのである。

 素晴らしい人生を歩むため煩悩は避けられない。しかし、その中にあって正しい生き方を心がけ人生を全うすることはできる。上の詩にあるような「他人の過失」を見つける暇があったなら、その時間を惜しんで自己の実現のために努力する方が幸せである。