2010年2月25日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(34)(20100225)

 今日23日の読売新聞夕刊に日本テレビ文化部記者・「donna」キャスター鈴木美潮という方による国母選手の服装に関する記事があった。これを見た男が次の感想を持った。このブログの記事を彼女が見ることはないであろうがなにかのために書きとめておこう、とその男は思った。

 男は思う。これは彼女が入社時の自分の装飾について問われた経験がバックにあって、国母選手の服装について批判するのはおかしいという立場である。「ユニフォームとしてのスーツを渡されたら、自分なりに着こなしてました。五輪を軽視していたわけではない。」という部分は男も「今時の若者の気持ちだろう」と理解できる。しかし「選手団が全員髪の毛を七三分けにして銀行員のようにスーツを着て登場してきたら、それはそれで嫌な気持ちになると、私は思う」という部分は、どうもおかしい。彼女は多少感情的に書いている。和魂洋才・中庸・礼儀などは時代が移り変わろうと日本人の美徳として大事にていかなければならぬ。洋服を着ようとワインを飲むと、日本人は日本人なのだ。彼女があのような記事を平気で書くのは、男’たちの世代の罪である。その罪名は、若い人たちに対してちゃんと教育してこなかったという「教えざるの罪」である。

 さて、ブッダ「真理のことば」第十九章は「道を実践する人」である。

 鏡に映った自分の横顔をみると、このまま白木綿の着物を着、その上に薄墨の衣をかけ、足に脚絆をつけ草鞋を履いて杖でも持てば出家の修行者のように見えるかもしれない。四国八十八か所を数カ月かけて巡ったあるお方が、「分かったことは、持ち物も何も要らないということです。」と語ってくれたことがある。今の男は段々そのような心境になりつつある。男は吾只足りるを知り、良寛の作詩『意(こころ)に可なり』の中にある「欲なければ一切足り、求むるあれば万事窮す」を口ずさむ。

 男が折角そういう心境になったかと思うと、今度は煩悩の芽がむらむらと起きる。優しい気持ちになっているかと思うと、ときに激しい怒りの言葉を口にする。そして夜になり、途中トイレに起きたりして7時間ばかり床の中に居て、朝になるとまた一日が始まる。西行の作詩『至善』の中にある「一日を一生として」可もなく不可もなく、平穏な、幸福な毎日を送っている。かくして月日を重ね、老いてゆき、「あの世」に近づいている。

256 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。
257 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
258 多く説くからとて、そのゆえにかれが賢者なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、かれこそ<賢者>と呼ばれる。