2010年7月6日火曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(108) (20100706)


 昨日列車の優先席の脇の壁に次の文章が書かれている広告があった。

   親が子を思う情はいつの世にも「永遠の片思い」であるという。

   片思いに応えられる年齢になったとき、親はいない。

   墓前にたたずめば、人は誰も

   「馬鹿野郎」と殴ってもらいたいと思う息子や娘である。

終わりの部分はちょっと記憶が確かではないが、まあ大体そのようなことが書かれていた。

 男は自分のことを振り返って、それほど「馬鹿野郎」でもなかったと思うが、10歳のとき死別した母には身を以って人の生き方を教えてもらったと思う。そのことは、このブログの「母」というラベルのところに書いてある。

 「子供の頃のことであったから」と大目にみれば「まあ、そうだろう」と非難されないであろうが、母には甘え心はあっても母に優しくする気遣いはなかった。

 昭和20年8月、朝鮮から連絡船で引き揚げて、国鉄に乗って多分小倉で乗り換えるときではなかったかと思うが、ホームに降り立つとき妹をおんぶしていた母はホームに降り立ったとたん仰向けに転んでしまった。10歳だった男は母が転んで仰向けになってしまったことをなじった。子供ながら引揚者一家の長であるつもりだったのだろう。

 車中親切な叔父さんがいてスーツケースを運んでくれたが、その人はホームには降りて来ず、そのままそのスーツケースを持ち逃げしてしまった。そのスーツケースの中には宝石など貴重品が入っていたという。母とすれば当面の生活のため必要な品々であったと思う。

 父は小学校の校長であったので事務引き継ぎなどして9月末に帆船で引き揚げてきた。家族一緒に父の実家に身を寄せたのはその後のことであったと思う。男には別府で母の親戚筋の家に暫くいたことを記憶している。

 父の実家で暮らしているとき、どういう理由だったかは記憶していないが、母に激しく食ってかかり母の胸を両手で強く押しやったことがあった。そのとき既に母の胸には乳がんのしこりができていた頃であったと思うが、子供の頃の男はそれがどういう意味か全く理解していなかった。

 入院中の母が男や男の弟に宛てたハガキをいつの間にか亡くしてしまった。今考えれば、母は息子である男に「片思い」の情を抱き続け、死ぬ間際まで男に教え続けたのである。母の祖父は侍であった。母は熊本藩士・御船奉行の祖父を誇りとし最期まで立派に生きた。

 人は必ず白骨となる。男はいずれそう遠くない自分の最期まで立派に生きるため、勝手に「在家仏弟子」となり、出来る限り隠居・遁世の暮らしをしようと考えている。

 そのことを皆に知らせるための文案を練っている。その手紙を受け取った人にあまり驚かれずにすむような文章にしなければならないと苦心しているところである。

24 修行僧は、身も静か、語(ことば)も静かで、心をよく安定統一し、世俗の享楽物を吐き捨てたならば、(やすらぎに帰した人)と呼ばれる。