2010年7月19日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(121) (20100719)

身に‘光るもの’を飾ることができるほど豊かでないから身には‘光るもの’を飾らない。その代わり質素で清潔で見た感じが爽やかなものを身にまとい、体も清潔にし、爽やかな笑顔で人に接する。発する言葉も穏やかで人を傷つけない。

たとえ名門大学を出ていなくても、資産家や社会的地位の高い人の家に生まれていなくても、常に学び知性を高めることを怠らず、常に謙虚で出しゃばらず、しかし学んで得た知識を生かして常に自らを律して衣・食・住・暮らし全般にわたって正しい日常生活を送る。心に飢えが無く、心は渇いていないから、他に何かを求めようとはしない。行為の結果がよく見えているので敢えて煩わしいことになる元を造らない。

そのような人は真の‘貴族’である。友は類を以って集まる。心が渇いて淋しい人は、同じような人と交わり自らの心の飢えを癒そうとするが、真の‘貴族’は独りであることを楽しむ。時に遠方より友が来て、傍から見れば簡素な自宅で酒を酌み交わし、天下国家や花鳥風月のことなどを談じあい、時の流れのなかのひとときを過ごす。

国家により年金という多少の‘祿’を受け、それ以上のものは求めず、その‘祿’の範囲内で無駄を省き、質素堅実に暮らす。己を人に見せびらかすための物は買わず、人に自慢するための旅行もしない。偕老同穴夫婦二人だけで行けるところまで行く。その先はまた国家により管理された終の棲家で最期のときまでを過ごす。なんという幸せか!

この日本國で「格差拡大」「弱者の目線」とかマスコミを通じて言葉だけが先行している。本当にそうか?人それぞれの境遇には自己責任が全くないのか?その自己責任もその人の‘前世’に起因するものが全くないと言えるのか?親は、先祖はどうだったのか?

明治初期わが国で作られた新漢語の言葉が、わが国への留学生などを通じて中国・朝鮮・東南アジアの国々に広まった。「哲学」という用語もその一つである。中国人が知らずに使っている言葉の中にわが国で作られた新漢語が沢山使われている。そのことも知らず自虐的な日本人が多い。戦後の価値観が急変した世代に育てられた世代が今この国の指導者層に集中している。それより若い世代の人たちは彼らの考え方に疑問を感じている。

日本人は文化的先進国の隋や唐や宋に学びわが国独自の文化を作り上げてきた。その一つの表れが次の漢詩にある。戦国時代から江戸時代にかけて生きた冷泉家の出の儒学者・藤原惺窩の作である。題は『山居』という。昨年8月の吟詠のブログで公開している。

        青山高く聳(そび)ゆ白雲の辺   

        仄かに樵歌(しょうか)を聴いて世縁(せいえん)を忘る

   意足りて求めず糸竹の楽しみ 

   幽禽(ゆうきん)睡(ねむ)りは熟す碧巌(へきがん)の前

ブッダの次のことばにも「前世」いう言葉が出てくる。

47 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、苦しみの終末を明らかに知った人、かれをわれは(バラモン)と呼ぶ。

0 件のコメント: