2010年7月7日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(109) (20100707)


昨日(5日)嫁の一人から自分が作った湯呑のペアとわざわざ取り寄せて沖縄のシークワーサーを贈ってくれた。湯呑は先日の父の日に間に合わせようと造っていたが、間に合わずそのときはTシャツを贈ってくれた。今回ようやく自分が造っていたものが完成し、血圧が高い女房のためにとシークワーサーと一緒に贈ってきたものである。嬉しいことこの上ない。シークワーサーは沖縄で取れる柑橘類の果実の汁である。説明書を読まずにコップに少し注ぎそのまま飲んでしまったが説明書には1日にキャップ1杯5mgと書いてあった。女房も男も3日分以上を一度に飲んでしまった。多く飲んでも害はないと書いてある。

湯呑は本当に良くできている。土は地元で取れた土だと言う。釉は教室の先生からアドバイスを受けてロクロを回しながら白と灰色の模様がついていて茶わんの淵に褐色のちょっとした垂れ下がりがあり、なかなか良くできている。女房のための茶わんは高さが少し低く、口広の形をしており、女房も大変気に入って喜んでいる。

男はそう遠くない将来、嫁と一緒の工房で陶器を創るようになればさぞ素晴らしいことだろうと思い、その思いを嫁に伝えた。嫁もそう思っているようである。そのようにしてお互い切磋琢磨して陶器を造り、一緒にブログに載せ、まあ、これは夢であるが一緒に作品展を開くとどんなに素晴らしいかと思う。嫁に「死ぬまでに是非実現したい」と言ったら嫁は喜んでくれた。もともと陶芸のブログを開設したらどうかと提案してくれたのは嫁である。今回贈ってきた湯呑茶碗2個は早速ブログに載せようと思う。

今日、男が造った楕円形舟形の多目的皿が焼き上がっていた。出来の悪さにがっかりした。3枚のうち1枚にはひびが入っている。しかも素焼きの段階では左程歪んではいなかったのに、釉をかけて本焼きにしたら歪んでいる。気に入らない。

それでも今日また同じ形のものを3枚造った。今度は厚さを6㎜にした。形の歪みやナイフでカットした淵のでこぼこなど形の悪さを気にしないで自然のままの出来上がりで良しとすることにした。周囲のアドバイスも聞かないことにした。

一般に芸術品と言う物は非常に細やかな丁寧な作業の結果完成するものであるし、人はそのような非常に繊細な丁寧な仕上がりのものを美しいと感じる。男も例外ではない。しかしいざ自分が物を創ろうとすると性格の故か粗雑な粗っぽいやり方を好んでいる。

今度造った3枚の皿は男のそのような気質を逆に利用して、釉をかけるとき2種類以上の釉薬を使い粗っぽい模様を造り出そうと思う。粗っぽい中にある種の美を、焼き上がりの偶然の産物として期待しようと思う。初めから仕上がりを念頭に置いて根気よく集中して細やかな作業をすることは気短な男の性には合わない。物事は結果次第である。

男はもともと粗野である。今更上品なことはできない。自然のままにした方が精神状態もすこぶる良い。身の丈に合わぬ余計なことを考えたりしたりすることは馬鹿げている。

25 明らかな知慧の無い人には、禅定がない。禅定を修行しない人には、明らかな知慧が無い。禅定と知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

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