2012年2月13日月曜日


橋下氏が唱える首相公選について (20120213)

 首相公選についてはかつて大勲位中曽根元首相が唱えたことがあった。橋下氏が中曽根氏と同じ考え方の下に首相公選論を唱えているのかどうかは分からない。しかしもし橋下氏が彼に言う「独裁者」的首相を意識して首相公選論を唱えているのであれば、それは甚だ危険な考え方であると言わざるを得ない。

地方自治体では、アメリカの大統領と議会議員のように建前上首長と議会の議員はそれぞれその自治体における直接選挙によって選ばれている代表である。同じ代表である首長と議会とは行政をめぐって対立することがある。橋下氏は同じことを国のレベルで考えているようである。もしそのようになると中曽根氏のときもそうであったように、国の元首は天皇以外に公選で選ばれた首相も元首となり得るという議論が出てくる可能性がある。

其処が一番大きな問題である。これは神武天皇以来男系皇統を守ってきた日本の国体の根幹にかかわる大問題である。影響力のある人物が首相のリーダーシップを強化するためであるという理由をあげて首相公選を唱えれば、中国や韓国は日本国内の反日勢力と呼応してその動きに乗り、日本人の精神構造をゆがめ日本の国体を変えてしまおうとする動きに出るだろう。

易経的に観れば、議院内閣制を堅持すべしとする勢力を「陰」とすれば、首相公選制を唱える勢力は「陽」である。この「折衷」は、日本の国体を断固堅持しつつ、首相のリーダーシップを強化する方策以外にない。

首相公選制は決して陰陽の折衷ではない。中曽根氏もそうであったが橋下氏も間違っている。首相公選は絶対間違っている。首相公選論が出てくる背景には今の問題はねじれ国会と民主党内事情がある。この根本原因は国会議員を選出した有権者たちの国家意識にあった。反日活動家や左翼思想を持つ政治家が多数いる民主党を選んだのは有権者である。有権者は民主党政権を選んでその失敗に気付いた。もう二度とこのような失敗はしないだろう。ゆえに「政治の制度」が首相のリーダーシップに影響があるのではない。

 勿論、ねじれ国会と民主党内事情だけが問題の全てではない。首相になった人物の「理念や資質」もリーダーシップ大きな要素である。故に「政治の制度」と「首相の理念と資質」、この二つがしっかり機能すれば、首相のリーダーシップは十分発揮される筈である。「首相の理念と資質」という点では中曽根氏は旧日本軍の将校であったので非常に優れたものがあったと思う。

ただ、彼は首相在任中特攻隊員の御霊が祀られている靖国神社に参拝しなかったし、キッシンジャー氏から電話があったとかで、小沢氏の要請を容れて中国の習近平氏を天皇に会うように(本来は「謁見」「拝謁」であるが、中国側メディアの写真では習氏が天皇に頭を下げていない写真を出しているという)取り計らったという。羽毛田宮内庁長官も古川氏や園部氏らとグループになって女系天皇を推進しているから、羽毛田氏も「慣例に従って」とポーズを示して、初めは小沢氏の要求を蹴ったが元々受け入れる腹であったに違いない。そういう諸状況から中曽根氏の信念には疑問符が付く。

 いずれにせよ最早有権者は経験学習をし、同じ失敗は二度としないだろう。故に橋下氏が安易な考えで首相公選を唱えるならば、彼には顔を洗って猛勉強し、出直して欲しいと思う。しかし彼が本気で首相公選すべしと主張し、そして外国人参政権・夫婦別称・女性宮家創設・人権侵害救助諸法案に反対しないのならば、彼と組もうとする石原都知事らもこの国の役には立たないだろう。

 そうであれば、残念であるがこの日本の再生のための折角の機会も「天」「地」「人」と「時」が味方せず、この日本国は衰退に向けた下降線をたどり続けることになるだろう。問題を発見できない関所として「知識の関所」「感情の関所」「文化の関所」の三つがある。これら三つ関所が、時の「運」を遠ざけるのかもしれぬ。