2012年2月28日火曜日


老夫婦二人暮らしの夕食(小説草稿)(20120228)

 「ただ今!」。信夫が陶芸から帰ってきた。「お帰り! 今日は遅かったこと」「いつものバスだよ」「丁度今出来上がったところなの。今夜は餃子」「いいねエ」。
 信夫は自分の部屋で着替え、化粧室で消毒液を指先から手首までまんべんなくこすりつけ、良く洗い、うがいを三回行ってから居間に行った。千代は信夫が陶芸で作った中皿2枚に手作りの餃子を並べてあった。「餃子の皮が2枚余ったのでチーズを包んで揚げてみたのよ。お父さんがお酒を飲むのにちょうど良いと思って」「千代の作る餃子は美味しいよ」と言いながら信夫は冷蔵庫の中から、飲みかけの紙パック入りの清酒白鶴を取り出し、食器棚からウイスキーのオンザロック用のガラスコップをとりだして食卓についた。

 ガラスコップなどは昨年秋まではサイドボードの中にしまっていた。老夫婦二人の死に支度の一環として、「これが最後になるね」と言いながら壁クロス張替えや建具塗装など内装を一新した。そのとき場所塞ぎになるからと木製の高級フランスベッドやサイドボードなど一部の家具類を廃棄処分した。サイドボードの中に入っていたガラス食器類も比較的良いガラス食器などだけを残して他は全て廃棄処分した。そのためオンザロック用のガラスコップも食器棚の中に収容してあった。

 信夫は3、4か月前から左大腿部の筋肉疲労が回復せず、階段を上がるとき左足を持ち上げると痛みを感じている。その状態は継続的ではなく、ストレッチをしたり、ちょっと駆け足で走ったりしたあとは痛みを感じないこともある。医者に診てもらったがMRIの診断結果でも脊椎に神経が当たっている様子もない。信夫はインターネットで調べた結果、自分のそのような症状は、「異常性大腿神経痛」に似ていると思った。入浴して温めると足を持ち上げても痛みは感じず楽になる。温めればいいのだと思って下着とサポーターの間に「貼るカイロ」を当てがっている。「年のせいだな」と自分で思う。そして「あの世も近い、早くいろいろとあの世行きの仕度をすませなければ」と思う。

 信夫はあの世に行くことについて特別な感情を持っていない。千代も「私、いつ死んでも思い残すことはないわ。長生きしたいとは思わない」という。信夫も同感である。しかし、その前に我が家の家系のことなど書き物をきちんと仕上げておかなければならないし、天皇家と同じような家族構成であるので、男系でつなぐために名字は違うが信夫と血がつながっている甥っ子を孫娘に引き合わせたら良いかななどと思ったりしている。

 あの世に行く前に準備しておかなければならない重要なことは、我が家の財産を全部千代の名義にしておくことである。これは贈与税など余計な金がかからぬように実行しなければならぬ。そうすればもし信夫が先に逝けば千代はその後のことで煩わしい手続きを省くことができる。もし千代が先に逝った場合、信夫は諸手続きに慣れているから心配ない。

 日本酒をちびりちびりやりながら老夫婦の会話が続く。「お父さん、セレモジャパンの書類、私に渡してちょうだい。もしお父さんが死んだとき葬儀のことなどで慌てずに済むようにしておきたいから」。二人ともあの世に行くことを楽しみにしているようである。