2012年2月4日土曜日


日本に自衛隊がいてよかった(続き)(20120204)
 
 菅元首相は自分が指揮して10万人の自衛官を現地に展開させたという趣旨のことを言って胸を張った。しかし、命令一下直ちにそのようなことができるわけがない。自衛隊は常に有事即応の体制をとっていて、大震災発生直後に直ちに行動に移していたからそのようなことができたのだ。また在日アメリカ軍が直ちに空母や艦艇を三陸沖に派遣し、自衛隊と協同作戦ができたのも、日ごろの日米共同訓練が積み重さねられていたからである

 “震災が起きた日から、多くの被災者を救うことになったのは、空からの救助だった。その主体となるはずだったのが、航空自衛隊松島基地に所在する松島救難隊である。

 しかし、救難ヘリUH-60Jなどが水没したため、1機たりとも飛び立つことができなかった。「今、すぐに向かわなければ間に合わない……」

 生存者を救出できるタイムリミットを考えると、ヘリさえあれば……。その思いで気は焦るばかりだった。

 自分たちの愛機が目の前で流され、壁に叩きつけられたショック、自家用車も押しつぶした津波の恐怖がまだまぶたに残っている。家族の安否さえ分からないままだ。

 しかし、彼らには「こんな時に飛べないなんて」「今まで何のために厳しい訓練を重ねてきたんだ」という、やりきれない思いしかなかった。そのとき、他基地から救難のヘリがたどり着いた。

 「来てくれた!」佐々野真救難隊長は隊員を集合させた。
 「家族が被災してない者、独身者、電話がつながった者を中心にクルーを編成する!」
 移動手段さえあれば、どこかの救難隊に臨時編入させることができると考えついたのだ。

 隊員たちがざわめいた。「隊長! 私も行かせてください」。
 隊長は胸が熱くなった。意気消沈している者などいなかった。「助けたい」という気持ちが何にも勝っていた。
 「われわれを乗せて行ってくれ!」救難物資輸送で基地に降りたCH-47(チヌーク)を引きとめた。このヘに便乗し、まずは救難団本部がある入間基地まで運んでもらおうという算段だ。突然の要請に司令部との調整は混乱した。

 「そんなニーズはあるのか?」と言われたが、必死の説得にそれ以上は問われなかった。他の救難ヘリは夜通し飛んでいるのだ。今、細かい手続きや説明をしている余裕はない。半ば力づくで80人の隊員のうち12人を向かわせた。12人の松島救難隊員は、入間からさらに百里基地まで移動し、翌朝から百里救難隊に臨時勤務する形で活動することになった。

 「よく来てくれた……」。彼らの姿を見て、百里基地では驚愕していたが、快く受け入れてくれた。「一緒に飛ばせてください! 燃料が続く限り」。それから不休の救出作戦が始まった。一方、」陸上自衛隊の航空部隊も壮絶な救出劇を繰り広げていた。”