2012年2月26日日曜日



「春を探る」に思う(20120226)

(さぐ)る   (たい)(えき)
尽日(じんじつ)(たず)ねて
杖藜(じょうれい)踏破(とうは)幾重(いくちょう)
帰来(きらい)(こころ)みに梅梢(ばいしょう)(と)って(み)れば
枝頭(しとう)に(あ)って(にすで)十分(じゅうぶん)

    探 春  
盡日尋春不見春 杖藜踏破幾重雲
  帰來試把梅梢看 春在枝頭已十分

 この詩の作者・戴益は、宋代の人であるということ以外一切不明である。この詩だけに名を残しているという人である。

 杖藜とは、あかぎ科の一年生草木の茎で作った老人用の杖のこと、帰来とは文字どおり「帰って来る」という意味である。

 この詩は、「幸せ」というものは、結局自分の傍にあるものであって、「幸せ」を求めてもがいても、ただ時間の浪費である。

「春は枝頭に在って已に十分」という意味は、こう解釈される。
それは、「幸せというものは、自分のすぐそばにある」ということである。幸せを求めてもがいても、決して幸せにはならないものである。幸せを求めてもがき苦しむことは人生の時間の無駄な浪費である。

男は思う。“どんな境遇にあっても「今が一番幸せですよ」ということができるような女性、必死の思いで子どもを育て、必死の思いで暖かい家庭を作ることに心がけ、おおらかで無私の愛を示し、たとえ連れあいの男に叩かれ傷つけられたとしてもその男を大きく包みこみ、終にはその男の言動を正しいものに変えてゆくことが出来るような女性は「春は枝頭にあって已に十分」ということができる女性である。観音様のような女性である。連れあいの男もそのことを悟るだろう。そういうような女性は正に生きた観音様である。こうして観音様のような女性と一緒にいる連れ合いの男も幸せな人生を送ることができる”―と。男はつくづく思う。正に自分自身がその「連れ合いの男」のようであるのだと。

もし自分自身がそういう女性ではなく、つれあいの男でもでないということを知るならば、その人は日々努めて「供養」に心がけ、他者のため役立つことを心がけて人生を送ることが必要である。そうすればその人は、来世にはきっと良い性質をもって生まれることができるに違いない。良いこともせず、修養もせず、いたずらに時を過ごすような人は、限りあるこの世を生きる上で大変惜しいことである。その人は来世も決して幸せにはなれないであろう。