2012年9月26日水曜日


日韓関係の改善のために(37)「日朝修好条規の締結(20120926)

 明治9年(1876年)211日、ようやく日朝交渉が始まった。明治元年1219日に日本使節・対馬藩家老樋口鉄四郎らが明治新政府の樹立を通告する国書を届けに行ったが、その国書の文面に「皇上」「奉勅」の文字があるという理由と、署名・印章ともに江戸幕府時代のものと違うという理由でその受け取りを拒否された。さらに明治79月に日本政府外務少丞・理事森山茂が日朝交渉のため書契を携え釜山に行った。その時はその書契の文面に前と同じように日本の国主(国の主)に「皇」を使い「奉」の文字があるものであったが、今度は門前払いではなく取りあえず両国の外交担当者同士接見し、その上で日本の書契の格式が外交形式上ふさわしくないことを質すという受け入れ方だった。しかもその接見の仕方は江戸幕府時代の伝統的な形式とすることにこだわった。服装すらも江戸幕府時代の礼服にするよう強く求めてきた。李朝側が言う「外交形式」とは、李朝の王がシナ(中国)、当時の清国の皇帝の臣下としてとった形式のことであったのだ。

 森山理事官は李朝の要求を拒否して帰国してしまった。李朝の政治家たちは近代国家の様子を全く理解できずにいた。しかし当時の李朝の “政治家、朴珪寿(パクキユス)(一八七四年までの右議政=副総理)は、世界の独立国家の王はみな皇帝の称号を用いているから、日本が書契に「皇」や「勅」の文字を用いるのは当然であり、またことさら古い形式にこだわるべきではない、という意見を閣議の席で主張していた。”しかしその当時からおよそ140年も経っているのについ最近、韓国の李明博大統領は天皇のことを「日王」と言った。尖閣国有化のことで起きたシナ(中国)国内のデモでは、日本を「小日本」と書いて日本の国旗を踏みにじる様子が放映された。シナ(中国)人も自ら「中国」と言うとおり、自分たちが世界の中心であるという中華思想が抜けきれていないし、韓国人も小中華思想が抜けきれないのが実情である。

 明治85月、日本はついに砲艦外交に打って出た。日本は軍艦と臨戦の軍隊を送り、全権特派大使を派遣する旨李朝に通告し、一方で李朝の宗主国である当時のシナ(中国)・清国と交渉し、李朝が日本の書契を受け取るようにさせた。結局李朝は日本の書契を受け取ったが、“李朝側(の外交担当者)は「全権委任」の意味を理解していなかった。・・(中略)・・さらに李朝側はなぜいまさら日本と条約を結ばなければならないのか、と疑問を提起した。・・(中略)・・日本側は、近代的な国際法に基づく条約の意義を説明し、全権委任の確認が国家間の協定では必要条件であることをしきりに説いた。翌一二日、日本側は条約案を示し、一〇日間を期限とする回答を求めた。李朝政府はこれを検討した結果、基本的に受け入れることにしたが、文章上の修正を要求した。前文の(李朝から日本に向けた)「大日本皇帝閣下」に対する(日本から李朝に向けた)「朝鮮国王殿下」という尊号の使用が対等でないという理由から、「大日本」の「大」の字と尊号の削除を求めたのである。
一九日からはじまった協議の結果、李朝側の要求どおり尊号を取ることに日本側が譲歩し、双方の国号に「大」を付して「大日本国」と「大朝鮮国」とすることで合意した。”(“”は引用部分)(続く)