2012年9月29日土曜日


日韓関係の改善のために(40)「日朝修好条約締結後の状況(続)(20120929)

 李朝では生存する国王の父を「大院君」と呼んでいた。大院君であった興宣君が閔氏一派によって政権の座から降ろされ閔氏政権誕生した。しかしこの政権の主要ポストは閔氏一族やその影響下にある者によって占められていた。韓国の歴代大統領を見ると大統領の親族による汚職が絶えない。これを見ると李朝当時の勢道政治の傾向は変わっていないと思われる。韓国という国家の「性格」は2世紀前までとそう変わっていないのである。引き続き呉 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。

“一八八一年(明治一四)に紳士遊覧団が日本を視察している頃、日本は李朝に対して、日本が献納した新式小銃で武装する近代的な小銃部隊の編成を勧めた。李朝政府はそれを受けて、各軍営から八〇名の志願者を選抜した。それを別技軍(ピヨルギ)と名づけ、王直属の親衛隊である武衙営に所属させ、日本軍人の堀本礼造少尉を教官に雇って訓練を開始した。

従来からの軍卒二千数百名は旧式の火縄銃で装備した旧軍兵士たちで、・・(中略)・・待遇も新式の別技軍の軍卒たちとは大きな差を付けられていた。また、五営あった軍営が統廃合されたて二営となり、多くの軍人たちが退役を余儀なくされてもいた。当時の朝鮮の人口一三〇〇万人に対して、軍隊がわずか二千数百名しかいなかったことには驚かされる。”

 “一八八二年(明治一五)七月に、この旧軍兵士たちが漢城(現・ソウル)で反乱を起こした。・・(中略)・・閔氏政権に不満を抱く下層市民を巻き込んでの大暴動へと発展していった。こうして壬午の軍乱が勃発した。七月二三日のことである。・・(中略)・・途中から別技軍までが暴動に加わり、軍兵たちは艦長、閔氏一族の屋鋪、日本公使館などを襲撃して王宮に乱入した。このとき閔妃は王宮から脱出したが、領議政(総理大臣)の李最応(イチェウン)や閔謙鎬をはじめ数名の閔氏系高級官僚が殺されている。また、王宮内にいた日本人教官の堀本礼造少尉も殺害された。その他、語学留学生、巡査など数名の日本人が暴徒に殺害されている。・・(中略)・・

 軍兵たちにとって恃(たの)みの綱は大院君だった。・・(中略)・・国王からの要請の形をとって大院君を王宮に迎え、再び彼を政権の座につけたのである。・・(中略)・・下野以来、九年ぶりに政権の座についた大院君は、復古的な政策を一挙に推し進めた。・・(中略)・・軍営を元に復し、別技軍を廃したのである。また、閔氏一派を政権から排除し、閔氏政権によって流罪に処せられていた者を赦免し、獄舎につながれていた者を釈放し、大院君の腹心の部下たちを要職に登用していった。”(続く)