2012年9月27日木曜日


日韓関係の改善のために(38)「日朝修好条規の締結(続)(20120927)

 日韓修好条規がなぜ韓国にとって不利な不平等条約になってしまったのか、ということについて日韓両国民は良く知っておく必要がある。韓国が「日本に不平等な条約を押し付けられた」と思い込み、日本が「韓国の近代化に日本はどれほど貢献したのか、韓国人は恩知らずだ」と思うのは、お互い相手のことを理解していないためである。『朝鮮人特攻隊』の著者・裴 淵弘(Bae Yeonbong)氏が言うように「歴史観の対立は、今も深まる一方だが、歴史はあくまでも歴史に委ねるべき」である。日韓の歴史学者の間で、例えば①日本の砲艦外交はなぜ起きたのか、②「自主の邦」や「最恵国待遇」について日韓双方が、当時どう理解していたのか、など個別の事柄について議論をし、日韓両国民にその議論の内容を積極的に知らせる仕組みを作ったらどうであろうか。これは地道な、しかし絶対必要な外交努力ではないだろうか。引き続き 善花女史の著書から“”で引用する。

 “案文のなかで日本は、「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」と表現していたが、それについて李朝政府は、「別に論ずべきなし」と同意している。しかし、この「自主の邦」の理解については、日本と李朝との間に大きな食い違いがあったはずである。

 日本は華夷秩序を認めない立場だったから、朝鮮を「自主の邦」と表現したのである。ようするにそれは、日本は中国と朝鮮の宗属関係にかかわりなく、朝鮮を独立国家として認めるという意志表示であった。しかし李朝にとっては、単に日本と朝鮮とが対等な国であることを示したものと受け取ったのである。

 議論となったのは、日本使節の漢城常駐、釜山以外の二つの開港場の選定、最恵国待遇の三つだった。最恵国待遇については、李朝側は「日本以外の国と条約を結ぶ意思がないので記すまでもなく無用」としたので削除した。

 李朝が公使の首都常駐を拒否したのは、江戸時代のように、慶弔時に随時往来すればよいという発想からのものだった。日本は懸命に説得したが理解を得られず、仕方なく譲歩している。・・(中略)・・

 また李朝側の公式文書には、国王の親署(サイン)と玉璽捺印がないことが問題となった。李朝では親署の規定がなく、国王印を刻印した玉璽もなく、「以政以徳」の印章をもって裁可のしるしとしていたからである。これを互いに譲らず対立し、交渉は再び暗礁に乗り上げてしまった。

 二二日、業を煮やした黒田特派大使は江華府から撤収することを通告して帰艦したため、結局は李朝政府が折れることになった。そして国王親署は行わずに、新たに国王の玉璽を作って捺印することで日本側も妥協して合意した。”(続く)