2012年9月28日金曜日


日韓関係の改善のために(39)「日朝修好条約締結後の状況(20120928)

 韓国人は、李氏朝鮮末期、当時の朝鮮の先達が日本に学んだことなど教えられていないことだろう。そのくせ自らの価値観・歴史観を日本に押し付けようとしている。そのうえ、2世紀前までのシナ(中国)と朝鮮の関係に戻ろうとしている。国家にも「性格」というものがある。状況に応じ「行動」は変わるが、「性格」というものは決して変わるものではない。日本は「性格」が合わぬ国々との付き合い方を変えるべき時期に来ている。
明治9年(1976年)、日朝修好条約締結後の状況について 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。
 “一八七六(明治九)二月に日朝修好条約が締結されて開国となると、李朝は日本と清国へ使節・留学生・視察団などを活発に派遣しはじめる。その主なものをあげると次の通りである。
   一八七六年五月 金綺秀(キムギス)を正使とする第一次修信使を日本に派遣
   一八八〇年(明治一三)七月 金弘集(キムホンジブ)を正使とする第二次修信使を日本に派遣
   一八八一年五月 魚允中(ヲユンジュン)ら六二名の紳士遊覧団を日本に派遣(内三名が初の日本留学生となる)
   同年一〇月 趙秉鎬(チョビョンホ)を正使とする第三次修信使を日本に派遣
   同年一一月 金允植(キムユンシク)が領選使となり軍機習学生を引率して清国・天津へ派遣
   一八八二年三月 国王の内命で青年官僚、金玉均(キムオクキュン)を日本視察に派遣
 金綺秀は帰国後に『日本見聞記』を著し(後に『日東記游』に収録)、金弘集は清国駐日公使館書記官・黄遵憲の著書『朝鮮策略』を献呈されて持ち帰り、魚允中は帰国後に日本と清国の見聞体験を『中東紀』としてまとめている。『日本見聞記』も『中東紀』も、明治維新後の日本で、近代化と富国強兵策がきわめて迅速かつ効果的に進行している様子を正確に伝えている。

 金弘集が持ち帰った『朝鮮策略』は、李朝にとっての脅威は南下政策をとるロシアであり、李朝のとるべき政策は「親中国、結日本、連米国」だと説いている。そのためには、欧米諸国と修好を結び、通商を行い、技術を導入し、産業と貿易の振興をはかり、富国強兵策を推し進めていくべきと述べ、日清両国への留学生派遣、外国人教師の招聘などの必要性を主張している。
 日本の外務卿井上馨も金弘集に対して、朝鮮にとっての脅威はロシアであり、李朝は欧米諸国に門戸を開くべきであると説き、日本はそうした情勢を踏まえて李朝との関係を考えていると述べている。・・(中略)・・

 閔氏政権下の李朝は、金弘集、魚允中、金允植ら開化派官僚と協同歩調をとりながら開国・開化策を進めていったが、国を反対方向に押し戻そうとする儒学徒ら衛正斥邪論者たちの力もいまだ衰えてはいなかった。そこで閔氏政権は『朝鮮策略』を複写して、全国の儒学徒に配布した。彼らに時代の趨勢を知らせ、開国・開化策を推進する必要性を訴えようとしたのだろう。ところが、逆に彼らから猛烈な反発を受けることになってしまった。”(続く)