2012年9月20日木曜日


日韓関係の改善のために(31)「柳条湖事件――満州事変の遠因(20120920)

 満州は漢族が造った万里の長城の北側にあり、20世紀末期まで漢族の支配下にはなかった。女直族の清王朝がシナ(中国)を征服した後、出身地の満洲には「省」を置かず、「将軍」を置いて他民族の立ち入りを禁止していた。しかし、満洲人がシナ(中国)を統治してゆくために少数民族である満洲人を北京に集めた。その隙を狙って非常に多くの漢族であるシナ(中国)人が満洲になだれ込み、匪賊となった。盧溝橋で爆死した張作霖は満洲人であったが16歳の時匪賊の首領・李公生に仕え、頭角を現し、後に東北部の軍伐の統領であるとともに、馬賊匪賊の英雄になった。盧溝橋事件はスターリンの命令によって日本軍の仕業に見せかけるように、漢族のシナ(中国)共産党組織が仕掛けたものであった。

爆死した“張作霖は朝鮮人嫌いで有名である。「朝鮮人の性格は悪いから一人も満洲には入れない」と公言していた。・・(中略)・・日韓併合後は朝鮮人は創氏改名後に日本人として中国人に仕返しし、いじめた。日本人が「日本鬼子」と呼ばれるのに対し、朝鮮人は「二鬼子」として、日本人以上に在満中国人から恐れられていた。朝鮮農民は勤勉である。満洲に流入した中国人移民は彼らを脅威としてとらえ、張作霖時代から在満洲朝鮮人への排斥と迫害は極めて陰湿で過激であった。”(岩間弘著『決定版大東亜解放戦争 下巻』、9ページより引用)

 張作霖の息子・張学良は軍閥の統領として満洲の民衆を苦しめていた。昭和6年(1931年)627日に大興安嶺東側地帯の軍事地誌調査に向かっていた中村震太郎大尉一行に対するシナ(中国)軍による殺害事件が起きた。シナ(中国)側はその殺害事件は日本軍の捏造であると言っていたが9月になって事実を認め関係者を軍法会議にかけた。昭和67月には長春郊外で漢民族と朝鮮民族との農民衝突事件が起きた。ついに“関東軍は、満洲民衆を苦しみから解放する為と、満鉄併行線建設を含む反日、抗日活動を抑止する為柳条湖事件を起こした”。これが満州事変の発端となった。“三〇万とも四〇万ともいわれた張学良軍は、一万数千人の関東軍の一撃だけで、総崩れとなって満洲から追放された。・・(中略)・・張学良軍閥が追放されると、満洲各地の軍閥や、実力者が結集して新国家建設に奔走しはじめた”。

 シナ(中国)各地の抗日博物館には見るも耐えないような展示物が並べられていて、それらの行為はすべて日本兵がやったこととして説明されている。シナ(中国)共産党の組織が行った残虐行為を日本に転嫁している。シナ(中国)政府は今、シナ(中国)各地で起きている暴動の原因が日本にあると公言して憚らない。日本が、勿論利益を得ることを目的とする企業活動ではあるが、シナ(中国)人の雇用や経済発展に貢献している事実には目もくれず、かつて日本がシナ(中国)にODAで支援していたことも忘れたふりをし、日本への恩を忘れている。これがシナ(中国)という国家の性格である。このような国家・漢族が主導している共産党国家の性格は、昔も今も、少しも変わっていないのである。