2013年2月6日水曜日


安岡正篤『易経講座』を振り返る(20130206)

 民主党政権がこの国を危うくしていた時期にこのブログで「渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える」「安岡正篤『易経講座』に学ぶ」などを投稿していた。このブログで最近後者の方に関心が集まっていた。そこでもう一度「安岡正篤『易経講座』」を振り返ってみることにした。これは一昨年(2011年)の暮れ1227日から昨年114日まで毎日連続で投稿していたものである。

「知は力」である。知らなかったことを知るため「学ぶ」ということは実に素晴らしいことである。しかし一度学んだからとて決して自分のものになるものではない。「学ぶ」ということはただ単に「会得」したに過ぎない。「会得」したものは絶えず「会得」する努力を続けないと忘れてしまう。時間が経てば全く元の「会得」していなかった状態に戻ってしまうものである。「会得」は同じことを繰り返し「会得」し続けることによって、初めて「体得」することができるものである。これは例えば一度自転車に乗ることができるようになれば自転車の乗り方を体で覚えているから忘れないようになるのと同じである。「体得」しなければいくら「会得」したからとて何の役にも立たない。しかし「会得」しないよりは増しである。ゆえに絶えず学び続けることは重要である。

 そこで久しぶり自分が書いて投稿した「安岡正篤『易経講座』に学ぶ」を読み返すことにした。読みながら「そうだ、そのとおり!」と肯く。その中の一つに“人間に与えられている価値判断によって、物の是非善悪を正し、一見矛盾するが如きものを解消して中へもっていく。これを折衷というのであります。折とはサダメルという字である。是非善悪を分別して、悪を折り、不正を折って、はじめて定まり進歩する。だから折衷という。単に歩み寄りなんていうものは居中であって折衷ではない。易は中庸である。中庸は複雑な現実に処して勇敢に折衷していくことである。”という言葉がある。

「是非や善悪を分別し、悪を折り不正を折る。一見矛盾するようものを解消する」ということは中々難しい。自分の頭で理解していることでも生まれつきの性格が邪魔をする。頭で分かっている通りには中々実行できない。特に気性の激しい者はあるきっかけで普段の穏やかさが信じられないような行動をしてしまうものである。そして気持ちが落ち着くとその行動を恥じる。これには生まれつきの遺伝子が大いに関係している。友は類をもって集まるというが、人の集合である組織の行動もその組織にどういう性格の人たちが多く集まっているかによってその組織がどういう判断をするかが決まると考えられる。

 民主党政権のとき尖閣諸島に対しシナ(中国)の航空機が領空侵犯をするとき我が国防空軍(航空自衛隊)が曳光弾発射をもって警告することについて、「そういうことをすればシナ(中国)を刺激する」という主張が通って曳光弾発射を封印してしまった。民主党の政権はシナ(中国)に歩み寄って「居中」しようとしたのである。その結果はどうであったか。シナ(中国)はさらなる歩み寄りを求めて公然と公船を尖閣諸島周辺に派遣し、度々領海侵犯させるようになった。これは例えて言えば獲物を狙う狼の群れが遠巻きに獲物の様子を窺っていたときに獲物の側に隙を見つけた途端に行動を起こしたようなものである。竹島問題についても北方領土問題についても同様である。国際関係においても「折衷」に努めるべきであって決して「居中」してはならない。「折衷」において重要なことは「是非」と「善悪」の判断である。人道に反することは「悪」であって「善」ではない。相手方と「善」と「悪」について徹底的に議論し、何を「是」とし何を「非」とするかルール作りから始めなければならない。そのルール作りは国際社会が公正公平に「是非善悪」の判断ができるようにしなければならない。国際社会が認める判断の結果やむを得ず武力衝突になる場合、正義は必ず日本に味方するであろう。それこそが「折衷」である。

易経は「居中」を戒めている。商売で甲と乙とが互いに主張しあい何処かで折り合いをつけて妥協して値段を決める。「居中」とは商売の上での妥協のようなものである。日本人は元来人を騙すことを嫌う性格がある。だから日本人は騙されやすい。そして「騙される方が悪い」と公然と言われてしまう。心の何処かに武士道精神を持っている日本人は他国との間の物事は先ず「政道」で処するべきである。「政道」が主であり「商道」は従である。もし他国との間の物事を「商道」を主にして対処しようとすれば必ず失敗することだろう。