2013年2月28日木曜日


「ケセラセラなるようになる」国と「我慢・辛抱・忍耐・努力」の国(20130228

 何処の国の言葉か知らないが「ケセラセラなるようになる」という言葉が歌詞の一部にある歌がある。日本でも高度成長期に『スーダラ節』というのがあって「わかっちゃいるけどやめられねえ」という流行歌が大変ヒットした。そこには「我慢・辛抱」などを吹き飛ばすような雰囲気があった。

 しかし2年前の東日本大震災以降日本人の「我慢・辛抱・忍耐・努力」の精神が蘇ったようである。日本人は苦境に立つと団結し一丸となってその苦境から脱出するために戦う。大東亜解放戦争は後に日本占領軍司令官マッカーサー元帥がアメリカの議会で証言したように日本の自衛のための戦争であった。同時にそれは欧米列強諸国による侵食からアジアを守りアジア人に対する欧米人の差別・蔑視を無くしアジア諸国を解放するための戦争でもあった。

 戦艦大和はそういう戦いにおいて艦長以下乗組員一同これが戦艦大和の最期となることを承知のうえ死に場所を求めて出撃し戦艦大和と運命を共にしたのである。阪神淡路大震災・東日本大震災はその大災害により自分が愛する人を失った方々や住み慣れた故郷を失った方々にとっては大変悲しい出来事であった。しかしそれは一方で『スーダラ節』の時代に生まれ豊かな環境で育った今の現役世代の人たちに日本人が本来持っているべき大和魂を呼び起こしてくれた「天佑」でもあった。

過去の歴史を振り返ると633年日本はシナ(唐)・新羅連合軍により滅亡の寸前にあった朝鮮半島西南部の百済国を救おうと白村江に42千人の大軍を派遣したが大敗を喫した。それを契機に当時の日本政府はシナ・朝鮮大陸からの侵攻に備えて北九州沿岸及び対馬・壱岐の離島の警備のため防人(さきもり)を配置した。

その640年後シナ(元)の皇帝になったモンゴル人フビライ=ハーンが日本に使者を送り元への服属を要求してきた。当時の日本の首相に相当する執権・北条時宗はこれを拒否した。1274年元は大軍をもって日本に侵攻してきた。日本の国土防衛に当たった九州の武士団は侵攻して来たシナ(元)軍と戦ったが大いに苦戦した。そのとき幸運にも暴風雨になりシナ(元)軍は大きな被害を受け撤退した。日本はシナ(元)が再び侵攻してくることを警戒し九州北部の海岸に防塁を築くなどして防衛体制を固めた。

1281年シナ(元)は今度は二つのルートで日本に再び侵攻してきた。九州各地の武士団から成る日本軍はその二つのルートの侵攻軍と戦ったが損害も多かった。罪のない一般農民の婦女子らは手に穴を開けられ縄を通され繋がれるなどシナ(元)の侵攻軍による残虐行為に遭った。この時も暴風雨となりシナ(元)の侵略軍は壊滅した。

それから730年後の現在、シナ(‘中国共産党王朝’国家)は沖縄への侵攻の計画を着々と進めている。しかもその意図を公然と発表している。それは平和をむさぼって来た日本人に対する情報戦の一環かもしれない。さらにそれはアメリカに対する沖縄県民の反感を煽りシナ(‘中国共産党王朝’国家)への親近感を増進させようと企む一部のマスメディアや活動家たちに働きかけ日本人の団結を阻止しようとする工作の一環かもしれない。しかし日本人は平和の眠りから目覚めたのだ。シナ(‘中国共産党’)の思いどおりにはならぬ。