2013年2月1日金曜日


人生を長い目で見る習慣が幸せを呼ぶ(20130201)

 男は若いころ、というより50代になっても未来のみに目を向け過去を振り返ることをなるべく避けていた。男は女房から「お父さんは自分が年老いていくことを忘れている」と批判されていたが、心の片隅ではずっと先のことを考えていたと思う。しかしそれは漠然とそう考えていただけであった。女房はただひたすら夫に仕え、子供の未来のことを考え、将来必要な資金のための準備をしてくれていたから、男はそういう女房に甘え、先のことは考えずにすんでいたのである。男の父親は明治末期生まれでもう45年も前に他界したが、その父親が「お前は○○子と一緒になれ」と言った。それが男の女房である。その父親が男と○○子のために親族だけを招待してある料亭で息子である男のために祝言を挙げてくれた。以来50年、男も女房を70の齢を超えた。今、男は自分が日々年老いて行っていることをしっかりと自覚している。男も女房も「あの世」に向けて日々支度をしている。

 ある資産家夫婦殺害・死体遺棄容疑で43歳と41歳の二人の男が逮捕された。世間には人生半ばで罪を犯す人が絶えない。もしそういう人たちが自分の10年先・20年先のことに意識を及ぼしていたならば、そのような重大な罪を犯さずにするだろうか?男はその意識だけでは罪を犯すことを思いとどまることは決して出来ないだろうと思う。自分の10年先・20年先のことに対する意識のほかに宗教心や他者の気持ちに共感することや他者への思いやりができるような心が無ければ、結局は罪を犯すことになるだろうと思う。

 他者は自分以外の者である。児童虐待のことがしばしば話題になるが、虐待される児童は他者である。自分が産んだ子供も他者である。宗教心のほかに児童という他者と自分の10年先・20年先のことに意識が及ぶならば虐待は防げることだろう。物事は年月という長い幅で捉え、今は辛くてもその他者との10年先・20年先までのことについて意識を働かせ、その幅全体でどうであるかと考えるならば、今の辛さに耐えることができる筈である。罪を犯す人たちは結局目先の慾得のことしか考えていないのである。自分の子供を虐待する親も結局はその親が目先のことしか考えていないからそういう行為をするである。

 子供の時から物事を時間の経過という幅で全体的に捉え、考える習慣を身につけさせることは大変重要であると思う。宗教はそういう観念を育てると思う。とりわけ仏教は生身の人間の生き方について最もよく教えてくれると思う。昔は娯楽が少なかったためでもあるがお寺でお坊さんの話を聞きに行くことが人々の楽しみの一つであった。男も子供の頃祖母に連れられてお寺での集いに参加したことがあった。男は10歳のとき母を亡くし近所の叔父さんから「仏壇の前で一生懸命お経をあげるとお母さんに会えるよ」と言われ、幼い弟と二人でお経をあげ、そのお経全文をその意味は判っていなかったが暗誦していた。そういう経験は男の宗教心を育てるきっかけになっていたことは確かである。