2009年9月9日水曜日

古代筑紫(九州)の大王の話~戦後の歴史教育を憂える~(20090909)
男は毎週火曜日、陶芸教室に通っている。自由陶作教室という教室である。男は手びねりや電動ロクロの教室で一応陶芸の基礎を学んでいる。陶芸をやっている人たちには二つの傾向があると思う。一つは、電動ロクロや手びねりである形を作る過程が好きな人たちである。もう一つは男のように実用的なもので、芸術的な作品を作ろうと考える人たちである。男の見たところ後者のタイプは非常に少ないようである。
男は目下お惣菜入ればかり作っている。食卓の上に作ったお惣菜を入れた中ぐらいの大きさの容器である。男は幾何学的な形は好まず、電動ロクロの上でできた綺麗な円い形を手でわざわざ崩し、彩色や釉がけにもあれこれ考えて、単純な素朴な暖かい感じのものを作るようにし、出来上がったものが見る人に何かを語りかけるようなものにしたいと思っている。このようなお惣菜入れを沢山作るうちに、あの世に逝くまでに一つぐらいは、見る人をして感動させ、後世に‘名作’として残るような作品が出来るかもしれないと思う。
教室まで電車とバス乗り継ぎで片道1時間半ぐらいかかる。男はその電車やバスの中で本を読んでいる。このブログに前にも書いたことがあるが、今日も『日本列島の大王たち』(古田武彦著、朝日文庫)を読んだ。著者は、神武天皇は九州の大王の分家筋であり、古代中国で「倭」と呼ばれた国は筑紫(福岡県)地方の人たちのことであり、神功皇后の新羅征伐は筑紫地方からわざわざ海を渡って倭の軍を朝鮮半島に送ったのではなく、そのころ朝鮮半島の南辺は倭の領土であり、隣(西側)に百済があり、新羅征伐はもともと神功皇后の祖先が新羅の王子の子孫であるので、里帰りしたようなものであると言うのである。
著者は、ヤールー川(鴨緑江)北岸にある広開土王碑に書かれている「倭軍が新羅城のすべての人々を殺し尽くし、高句麗の領域に侵入したが、好太王(広開土王)は兵を率い船を連ねて倭軍の背後から倭軍を攻めて撃退させた」という趣旨のことについて、碑に書かれている「倭」は大和朝廷の倭ではなく、筑紫の大王の領地である朝鮮半島南辺にいた倭であると、諸史料をもとに論証している。そして、『日本書紀』の神功皇后に関する記述は北九州(筑紫)の大王の分家筋である天皇を本家にするため、北九州の大王の事跡に関する史料をもとに造作したものであると言う。
男は学者でもないので一般庶民としてただ感じ取るだけであるが、著者の言っていることは正しいと思う。『古事記』の「天孫降臨」の条にニニギノミコトが高天原を離れ、筑紫の日向の高千穂の嶺に降り立って「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の岬からまっすぐに朝日がさす国」と述べたと書かれている。紀元前、九州の地には長江中流域から戦乱を逃れて笠沙に辿りついた人たちは当時の文明人で高度な知識や技術を持った人たちであり、筑紫(九州)各地の豪族にその知識や技術を伝えながら土地の人たち、当時の倭国の人たちと婚姻し、同化し、子孫は既に倭人となっていた。筑紫の倭人たちは朝鮮半島の南辺まで進出し、隣の百済と良好な関係を保ち、両者が連合して北進し、新羅を攻め、さらに高句麗に侵入しようとしたが撃退されたのであろうと、男は想像する。
戦後の教育において戦前の教育指導は一切否定された。広開土王碑に書かれている「倭」は当時の日本軍参謀の造作であるとして、古代の日本は朝鮮半島の北まで足を伸ばてはいないと主張する学者が表れた。男は、日教組はわが国に共産革命を起こさせることを目論み、子供たちに誤った歴史観を身に着けさせようとしたのではないかと憂えている。

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