2009年9月26日土曜日

高麗に遊ぶ(20090926)

 25日金曜日は快晴で、男は女房と一緒に35年ぶりに高麗の巾着田に行楽した。そこは子供たちを連れてよく遊びに行ったところである。田に水を引く井出がある用水路でドジョウやフナなどが泳いでおり、巾着田の向こうには小川が流れており、子供たちを遊ばせるには絶好の場所だった。芹摘みも楽しむことができたのどかな田園地帯であった。

 西武池袋駅に着くと運よく臨時の特急「武蔵」号がホームに入っていて、特急券自動販売機で特急券を購入し飛び乗った。それはちょうど高麗行きだった。高麗まで片道50分ほどかかった。飯能で逆方向に走り線路を変えて秩父に向かうので、なにか変な感じである。列車は空席が沢山あったが、高麗に着くと観光客で賑わっていた。駅前の広場でボランティアが案内のパンフレットを配っている。一枚もらって昔の記憶をたどりながら巾着田に向かう。途中地元の人たちが店を出していて、地元の産物を売っている。

 巾着田に着くとそこは一面のコスモスの野となっており、その向こうの小川沿いのところは一面の曼珠沙華の野である。昔の巾着田はコスモスの野と観光バスの駐車場になっており、舗装された道路ができている。それでも昔子供たちが遊んだ用水路は残っていて水が流れており、小魚が泳いでいる。男の当時の子供たちはそれぞれ45歳と42歳になり家族もいる。男は息子たちに今の巾着田の写真を送ってあげようと、何枚か写真を撮った。

 今これを書いている机の上に息子たちの家族が写っている写真が何枚かある。一枚の写真には男と二歳の孫(男子)と二男が写っている。男のY遺伝子は確実にこの孫に伝わっている。男はこの孫が20歳になるまで生きているかどうかと思う。それが人生である。

 さて、高麗には高麗神社があり、高麗(唐に攻められる以前は高句麗)の王族であった人が祀られている。『続日本紀』によれば、元正天皇の霊亀二年(716)の条に「五月十六日 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国にいる高麗人千七百九十五人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた」とある。高麗神社は高麗郡の大領(平安時代中央官人である国司の下に置かれた在庁官人の郡司の地位)であった高麗若光を祀っている。

 高麗郡の高麗郷(現在の日高市高麗本郷付近)には旧高句麗からの遺民が、上総郷(現在の飯能市北東部)には上総国からの移民が配置されたもと考えられている。それは『続日本紀』文武天皇大宝三年(703)の条に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されて.おり、高句麗は668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまい、以後「高麗」と呼ばれるようになった.ことからそのように考えられるのである。

 高句麗の王族は、難民となって日本に帰化し、高麗王(こまのこきし)という姓と官位を与えられ、高句麗の遺民の統率者としての地位を与えられていたのである。ちなみに新座には新羅人が居住地として与えられていた。『続日本紀』には淳仁天皇の天平宝字二年(758)の条に「八月二十四日 帰化した新羅僧三十二人・尼二人・男十九人・女二十一人を、武蔵国未開発地に移住させた。ここに初めて新羅郡を設置した」とある。この新羅郡があったところが後に新座という地名になったのである。

 1300年、1400年前朝鮮半島の戦乱の影響で非常に多くの渡来人たちが日本に帰化し、姓を与えられ、朝鮮半島で王族・貴族であった者には相応の官位が与えられ、数世代を経て混血が進み、皆日本人になったのである。在日外国人に参政権を与えることについては、たとえ地方自治体といえども日本国籍を取得した後とすべきである。