2009年9月30日水曜日

夫唱婦随と対等(20090930)

 妻は夫を慕いつつ、夫は妻をいたわりつつ、・・とは昭和の演歌の代表だと思う。「・・だと思う」と言うのは、男は子供の頃か若い頃かそのような歌をラジオか何かで聞いた記憶があるからである。「確かそのようなセリフだったと思うが」とおぼつかないのでインターネットでそのセリフを入れて検索してみたら即座にそれが出て来た。誰かのブログであるが、さっと目を通してみると護憲・軍縮・共生を掲げて活動している人のブログであった。

 男は日本国の形を背筋がピンと真っすぐな気骨と気品のある国に、他国から畏敬さる国に、若者が自分の国を誇りに思う国にするために、憲法の改正は絶対必要であると思っているから、そんなことはどうでもよい。しかしこの世の中はそのような活動を熱心に行う人がいなければバランスはとれないだろうから、そのような人の言うことにも耳を傾けよう。

 今日はそれがテーマではない。国際社会では、一つの国を一人の人格のようなものを持つ存在と仮定すると、ある二国間の関係において夫唱婦随のような関係があるということはあり得ない。温暖化対策の国際交渉の場では、どの国も国益をかけて、自国に最も有利なように行動する。だから、一つの国が人格のようなものを持つ存在としても、男性とか女性という性差があるのではなく、男性ばかりということでもなく、女性ばかりということでもなく、中性ということである。

 そういう中で、‘対等’という言葉を使う場合、考えられるあらゆる要素を出し合って、ギブアンドテイクがイクオールであるということである。例えば軍事力を保有していなくても、別の面で力を持っていて、双方にイクオールなギブアンドテイクが認識されれば、それはすなわち‘対等’な関係であると言える。

 夫婦の関係において、夫唱婦随であることが理想であるとする条件は、結婚生活の歴史において「これまで」「夫が妻に対してしてきたこと」「妻が夫に対してしてきたこと」を全て総ざらいにし、お互いにギブアンドテイクが満足であることである。その満足を得る道は夫婦の間の非常に緊密なコミュニケーションであり、多年にわたるいろいろな紆余曲折を経て辿りついた相互の理解である。

 日米同盟関係について考えると、お互い‘中性’的存在である者同士が、戦後これまで継続してきた関係を一層緊密にしてゆくことによって理解も深まってゆく筈である。そのためには、言葉の壁を完全になくして行かなければならない。国際紛争の処理において一方だけが血を流し、他方は血を流さずに恩恵を受けるという関係では、どのように頑張ってもギブアンドテイクということがイクオールにはならないと思う。従って、血を流さない限り‘対等’な関係はできないのだ。今日、テレビの報道でアフガニスタン駐留のアメリカ軍の一部隊の指揮官が「前任者は戦死した。まだ奥さんにはそのことを伝えていない。」というようなことを話していた。

 話は急に変わるが、男と女房の関係はまさしく夫唱婦随の関係であると思う。それも今日まで紆余曲折を経てここまで来たものである。他人から見れば最も理想的な関係に見えることだろう。女房は昨日ぽつりと言った。「お父さんが百まで生きるのなら私も百まで生きていなければならない。」と。男は「おまえは俺より先に死んではならぬ。」と言った。時期が到来してあの世に逝った場合でも男と女房はまた連れ添うことだろう。その時は今よりもずっとレベルの高い人生を送ることになるだろう。