2009年11月15日日曜日



纏向遺跡と耶馬台国(その3)((20091115)

『古事記』によれば大帶日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコワケノミコト)(後の景行天皇、71711- 130117日)は今の奈良県磯城郡の旧纏向村にあった日代宮(ひしろのみや)に坐して天下を治めていた。纏向村という村名は『古事記』に書かれている‘纏向’という名称に由来する。最近話題になっている奈良県桜井市の纏向遺跡は、その村名を冠してその地域に数多く存在する遺跡群を総称している。その一つの纏向箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと騒がれている。
57年に倭の奴国が中国の後漢の光武帝に朝貢使を送り「漢委奴国王印」を贈られている。23912月(陰暦であろう)に「親魏倭王卑弥呼に制詔す。(後略)」という詔書を下されている。倭国からの朝貢においては‘生口’(これは戦争で捕虜となった人々で労働に使役された)を多数献上している。これらのことは『後漢書東夷伝』や『魏書東夷伝倭人条』に書かれている。男は、古代は‘生口’‘殉葬’などあり人権無視も甚だしかったと思う。
この奴国や耶馬台国があった時期は、後に垂仁天皇と漢風諡号された伊玖米入日子伊沙知命(ミマキイリヒコイサチノミコト)(紀元前2912- 70714日)から後に応神天皇と漢風諡号された品陀和気命(ホムダワケノミコト)(27011- 310215日)までで、卑弥呼の時期は神功皇后(息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト))(170 -26963日)に相当する。
『古事記』には、タラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)とオキナガタラシヒメノミコト(後の神功皇后)との間に出来た御子の一人・品陀和氣命(ホムダワケノミコト)は長じて応神天皇(13115- 190611日)となり、輕島(かるしま)(奈良県の高市郡)の明宮(あきらのみや)に坐して天下を治めた、と書かれている。
‘卑弥呼’(‘弥’と言う字はフォントがないのでこの字にした)が男は神功皇后が女王卑弥呼であるのかどうか、神功皇后の時代、大和盆地には‘卑弥呼’の‘ミコ’と名が付された独身の女王がいたのであろうか、北九州に耶馬台国があったのだろうか、佐賀県の吉野ケ里遺跡は北九州の王国とどんな関係があったのだろうか等いろいろ疑問が湧いてきた。考古学や遺伝学は日本の古代の歴史を明らかにしてくれることだろう。
男は、北九州の王国は、後に大和盆地の天皇家により滅ぼされたのではないかと考える。『古事記』には、品太王(ホムダノミコト)の五世(いつつぎ)の孫(みこ)のを本杼命(ヲホドノミコト)(後の継体天皇)(50724- 53127日)の御代、527年に「竺紫(ちくしの)君石井(いはい)、天皇の命(みこと)に従わずして・・(中略)・・・石井(いはい)をころしたまひき。」とある。実行は物部、大伴の二人と書かれている。
『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(いずれも和田清/石原道博編訳、岩波文庫)を読むと、古代の日本と中国の関係、日本の風俗習慣、中国の皇帝への貢物に労働に使役させる同じ日本人の何百人という戦争捕虜も入っていること、奴婢という奴隷のように扱われていた同じ日本人が卑弥呼の死のとき生きたまま葬られたことなど、当時の状況が手に取るように分かる。
人間は残虐・無慈悲なことを徐々に無くすように努力してきている。しかし平和・友愛の希求だけでは生き残れない。牙を隠し、牙を出す者(団体、群、国)が存在している現実への対処が重要である。侍のように滅多に抜かないがどうしても斬らなければならないときのため、いつも腰に氷刀を差していなければならないのだ。
NHKの世論調査では、女性天皇支持者が7割を超え、その中で女系天皇支持者が8割を超えたという。男は、世の男たちが女性化してきている現状を嘆く。女性天皇は何人かいたが、女系ということは日本の歴史の中で一度もなかった。
人類の歴史の中で女性にしか伝わらないというミトコンドリアの遺伝子を調べて、人類は20万年前一人の母親から始まったという。Y染色体は男にしか伝わらないので女性天皇になるということは、もし愛子様が将来天皇になれば、愛子様には美智子皇后の遺伝子が伝えられ、その時点で神武天皇以来の皇統は途絶えることになる。日本人が日本中の家々の宗家として敬愛する天皇家の内容が変わって来る。日本人が世界に誇ることができるものが失われることになる。本当にそれでよいのであろうか?
昨夜(13日夜)皇居前広場で天皇在位20年が盛大に祝われた。3万人を超える人々が提灯を振って天皇を祝った。女房は「天気予報は雨だったのに ‘天皇晴れ’になった。不思議ね。」と言っていた。男は崩御された昭和天皇の葬式時、雨が降っていたことを思い出した。
皇居前広場に設けられたステージの上で、EXILEが男らしい姿で踊り、歌った。天皇が「ありがとう」と二重橋の上からお言葉をかけられた。この祝賀行事に鳩山総理も出席し、国民を代表してお祝いの言葉を述べた。読売巨人軍の原辰徳監督や女優の森光子さんもそれぞれお祝いの思いを述べた。「天皇陛下万歳!」という掛け声が鳩山現総理大臣、森元総理大臣などから上がった。会場に入れず近くの公園で大写しのテレビ画面をみていた人たちも皆国家「君が代」を合唱していた。男はテレビを観ていて感動した。しかしこのような光景は今上天皇の代で終わりになってしまうのかもしれないと不安が頭をよぎった。
長い日本の歴史の中で推古朝(592128- 62837日)以降各地の王は天皇に服従し日本の国体が定まった。しかし天皇が自ら政治を行っていた時代は短い。平安末期以降天皇は将軍たちに位を授け、権威を与えるだけの立場になった。明治憲法下天皇は軍を統帥したが、それは形の上だけであった。しかし昭和天皇は、憲法上のお立場から自ら戦争責任を取ろうとされた。戦勝国アメリカはそれだけは避けるように工作した。
男は神武天皇の故郷・宮崎(宮の前)を旅し、これまで8回にわたり「自分はどこからきたのか」というテーマで心の旅をしてきた。いろいろ調べていろいろなことが分かった。時間と余裕があるからできた旅である。そのことを女房には感謝しなければならない。
女性天皇のことといい、外国人参政権のことといい、左翼的思想の国会議員が多い民主党政権に対して男はこの長い歴史ある日本国を間違った方向に導くことが決してないようにして頂きたいと切に願っている。(この項終わり)

0 件のコメント: