2009年11月14日土曜日

纏向遺跡と耶馬台国(その2)(20091114)

 男は『日本列島の大王たち』(古田武彦著、朝日文庫)に書かれていることに大変興味を持っている。神功皇后の朝鮮半島への進出については古田武彦が言うように畿内の天皇家が行ったのではなく、畿内の天皇家と血が繋がっている九州の大王が行ったのであると思う。
 
 『古事記』によれば、大帶日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコワケノミコト)(後の景行天皇、71711- 130117日)の御子の一人に小碓命(オウスノミコト)(後の倭建命ヤマトタケルノミコト)(日本武尊)がいる。このヤマトタケルノミコトの御子の一人に後の仲哀天皇と漢風諡号され帶中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)がいる。
このタラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)(192111- 20026日)は穴門(今の下関市長府)及び筑紫(今の福岡市香椎)で天下を治めたとある。このタラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)の最初の妻・大中津比賣命(オホナカツヒメノミコト)は5代遡るとタラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)の父と同じ倭建命(ヤマトタケルノミコト)になる。
 
 タラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)最初の妻・大中津比賣命(オホナカツヒメノミコト)の間に香坂王(カコサカノミコト)と忍熊王(オシクマノミコト)という二人の御子がいた。この二人はタラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)の現地妻・息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)(後の神功皇后)の策略で彼女の子(後の応神天皇)が皇位を継ぐことをその二人の御子に疑わせるようにし、結局香坂王(カコサカノミコト)は猪に襲われて死に、忍熊王(オシクマノミコト)は息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)(後の神功皇后)の策略にひっかかり追い詰められて琵琶湖で入水自殺しまった。
 
 タラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)最初の妻・大中津比賣命(オホナカツヒメノミコト)の父はオホタラシヒコワケノミコト(後の景行天皇)(71711- 130117日)で、今の奈良県磯城郡の旧纏向村(注:この村名は『古事記』の記事に由来している。)にあった日代宮(ひしろのみや)に坐して天下を治めていた。従い最初の妻・大中津比賣命(オホナカツヒメノミコト)は二人の御子とともに奈良にいたのであろう。二人の御子の死の時生きていたのかどうかは『古事記』には書かれていない。
 
 『古事記』には息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)(後の神功皇后)が妊娠したまま新羅征討したことなどについて書かれている。オキナガタラシヒメノミコト(後の神功皇后)の母の先祖は朝鮮半島新羅の国主(こにきし)の子・天之日矛(アメノヒボコ)であるが、父系は欠史八代の一の若倭根子日子大毘毘命(ワカヤマトネコビコオオビビノミコト)(後の開化天皇)(紀元前1581112- 紀元前9849日)である。

 男は古代の北九州には強大な王国が存在していて、古田武彦が言うようにヤールー川(鴨緑江)北岸にある広開土王碑に書かれている「倭軍が新羅城のすべての人々を殺し尽くし、高句麗の領域に侵入したが、好太王(広開土王)は兵を率い船を連ねて倭軍の背後から倭軍を攻めて撃退させた」という趣旨のことについて、碑に書かれている「倭」は大和盆地にいた天皇家の管理下にあった軍ではなく、筑紫の大王の領地である朝鮮半島南辺にいた筑紫の大王の軍であると考える。
 
 (関連記事(関連記事『日本列島の大王たち(20090826)』、『古代筑紫(九州)の大王の話~戦後の歴史教育を憂える~(20090909) 』) (続く)