2009年11月17日火曜日




卑弥呼と神功皇后(その2)(20091117)

纏向遺跡と耶馬台国(その3)((20091115)で書いたように、卑弥呼の時代と神功皇后の時代とは時期が重なっている。このことについて『日本書紀』の編纂者は中国の史書を読んで引用したり参考にしたりしているから卑弥呼は神功皇后と同一人物としているという人もいる。先に引用した『日本列島の大王たち』を書いた古田武彦は、『日本書紀』の編纂者は九州王朝の史書を盗用し、近畿天皇家(大和盆地の天皇家)にもともと存在していなかった神功皇后を『日本書紀』の中にはめ込んだと言っている。彼は肝心の邪馬台国は九州の博多湾岸であると言っている。
『古事記』は天皇家のための私的な歴史物語である。これらは天武天皇(673227- 68699日)が編纂を命じ、712年に完成している。編纂にあたって天武天皇の意図が働いたと考えられている。男はその一つは「天皇」号であると考える。「天皇」号は神武天皇の時代にあったわけではないのに『古事記』には見出しとして書かれている。これは天皇家の皇統を分かりやすくするためであったと思う。また大和盆地の王家が日本の支配者であることを明確にするため、神武天皇の本家である九州の王朝の倭国が391年又は311年以降百済と組んで新羅に侵寇したことは敢えてカットしたのではないかと思う。
『古事記』で神功皇后と書いている息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)は仲哀天皇の‘現地妻’である。仲哀天皇薨去後お腹に子供(後の応神天皇)が出来ていたが新羅の征討に出かけたが戦うことなく戻って来て宇美(うみ)(福岡県粕屋郡)で御子を産み、末羅縣(まつらのあがた)の玉野里(佐賀県東松浦郡玉島川)に至っている。神功皇后の母方の祖先は新羅の国主である関係で戦う必要はなかったのだ。
その後大和盆地に行ったのであろう。『古事記』には、夫・仲哀天皇は「壬戌の年の六月十一日に崩りましき。御陵は河内(大阪府南河内郡)の惠賀の長江にあり。皇后は御年一百歳にして崩りましき。狭城の楯列の陵(奈良県生駒郡)に葬りまつりき。」とある。
男は、神功皇后がオキナガタラシヒメノミコトという名前であったことから、ヒメノミコトから‘メノ’と‘ト’を取るとヒミコとなるので、神功皇后こそ卑弥呼ではないか、そしてヤマト王権が確立するまでの間、各地の王との争いがあったであろうから、邪馬台国は大和盆地にあり、纏向遺跡群はそれを示すのではないかと思う。
歴史学者たちは一度主張して広く認められた学説をなかなか曲げることはしないだろう。男は九州王朝など古代の各地の王朝は大和盆地の天皇家との間で長い間抗争があり、最終的には継体天皇の御代、九州の岩井の乱平定(527年)でその抗争は終わったのだと思う。古代中国や高句麗で‘倭’と呼ばれた国の中心は北九州にあり、その倭は朝鮮半島の南部地域を領有していたのだ。日本には朝鮮半島から非常に多くの各種技能者たちが渡来してきてわが日本国の発展に貢献してくれたのだ。そのお陰で推古天皇の御代にはわが日本国は当時の隋の皇帝に肩を並べるようなもの言いをし、その後唐の官制に負けないくらいの国家制度を確立して唐と対等な立場を示す一方で、唐や朝鮮半島の文化をどん欲なまでに吸収していたのだ。渡来人たちは皆日本人になったのだ。山上憶良もその一人なのだ。
その日本国の中心にあったのは神武天皇に始まる天皇家である。先日今上陛下ご在位20年のお祝いが皇居前で行われたとき、3万人を超える人々が集まり、皆提灯をかざしてお祝いし、何度も万歳三唱した。男はその時日本人の心は一つになったと感じたものである。(終)

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