2009年11月16日月曜日



卑弥呼と神功皇后(その1)(20091116)

 これまで「日本人の起源とヤマト王権」と題して、その1(20091107)、その2(20091109)、その3(20091110)、その4(20091111)及びその5(20091112)まで5回、また「纏向遺跡と耶馬台国」と題して、その1(20091113)、その2(20091114)及びその3(20091115)まで3回、男は「自分はどこから来て何処に行くのか」知りたくて、探究してきた。

 ここで一つの疑問がわいてきた。それは中国と北朝鮮の国境の鴨緑江北岸にある遺跡「好太王(広開土王)碑」の記述である。これまでもたびたび引用した『日本列島の大王たち』(古田武彦著、朝日文庫)によれば、この碑は高句麗の好太王(広開土王)が没した2年後の甲寅年(414年)に建造されたとのことである。古田武彦はその本の中で碑文全文の口語訳を示している。それによれば、高句麗の始祖(在位は紀元前37 - 20年)のことから五代の王までのこと、その五代目から17代経た子孫の好太王(広開土王)の事跡のことが長々と書かれている。以下、関係部分の要点をまとめる。

 好太王(広開土王)は18歳で王位に登り永楽太王と呼ばれ、39歳で没している。その王の屍は甲寅年(414年)九月二十九日の乙酉に山稜に葬った。ここにおいて銘文を刻んだ石碑を立て太王の勲跡を銘記し後世に示すことにした。以下永楽五年(395年)から永楽二十年(410年)までのこと、それ以降のことが刻まれている。倭が辛卯年(391年あるいは311)に(百済・新羅の地)にやってきた。以降倭に関わることが碑文に刻まれている。

 一方、古田武彦は中国の『三国史記高句麗本紀』を引用し、新羅の奈勿王(在位356 - 401年)の治世に新羅は倭人の度重なる侵寇に悩まされていたことを示している。古田武彦は好太王の即位直前においてすでに「高句麗―新羅」対「百済―倭」の対立関係があったということを史料をもとに論じ、その倭は北九州遠賀川周辺に本拠を置く大王の倭であって近畿天皇家の倭ではない、46世紀の倭国は卑弥呼以来の倭国であったことは疑えない、『日本書紀』のその当時の部分は造作である、としている。

 その造作とする根拠は、『日本書紀』の神功紀には百済系三史料『百済紀』『百済本紀』『百済新撰』の中の『百済紀』の古い部分が挿入されているからである。確かに『日本書紀』の神功紀』を良く読んでみると古田武彦が言うとおりである。邪馬台国の卑弥呼女王の時代と神功皇后の時代を同じ時期にしている。しかも好太王(広開土王)に書かれている倭軍が新羅に侵寇した時期は、『日本書紀』の神功紀に書かれた神功皇后が新羅に攻め込んだと『日本書紀』に書かれている時期より150年ばかり後である。

 男は、北九州には大和盆地にいた天皇家とは別に強大な王国が存在していたと思う。その王国は継体天皇の御代、岩井の乱をもって完全に消滅したが391年または399年以降百数十年にわたり倭として朝鮮半島に領地を有していたが、岩井の乱(527年)以降は大和盆地の天皇が支配することになったのだと思う。その朝鮮半島の権益も663年の白村江の戦いで完全に失われてしまったが・・・。

 『古事記』には仲哀天皇と神功皇后を除いて他の天皇は大和盆地にあった宮(天皇によって奈良盆地内の宮の場所は異なる)で天下を治めたと書いてある。邪馬台国は大和盆地に展開した神武天皇の子孫の王家が築いた国であったのだ。だから現在奈良県の纏向遺跡が邪馬台国の遺跡ではないかと騒がれているのだ。男と女房は2年前大和盆地(飛鳥、奈良)に旅したが、また行ってみたいと思う。(続く)