2009年12月12日土曜日

諸々雑記/誰も結果責任をとらない国政(20091212)

今日は雨天で肌寒い。男は外出するつもりシャワーを浴びたり、いろいろ身支度を整えたが、結局外出するほどのこともなかったので一歩も外に出ず、テレビを見たりブログを書いたり、読書をしたりして過ごした。このようにして社会的隠居制度である年金暮らしのご隠居さんをやれることは大変有り難いことだと大変感謝している毎日である。

男と女房は29日から正月4日まで九州の田舎の家で過ごす。そこでブログの記事について男は年末年始の休日期間中は予め作っておくものを出そうと考え、その間のブログの記事は小説風のものにしようと「初恋」という題で記事を作っている。今日はその小説風の記事を5日分一挙に書きあげた。これは後日題名など再検討して29日新幹線で九州に帰る前までに公開予定記事として日時指定でアップロードするつもりである。

小説風記事を書き始めて面白くなり作業がはかどった。この調子なら1週間分ぐらいすぐ書きあげられると思った。男がいずれこの世を去ったとき、孫たちが祖父である男の記事に関心を持ってくれた時「おじいちゃんはこんなものを書いていたんだ」と感心してくれるだろうと思う。それで十分であり、それ以上のことは期待しない。

人生は短いが心の世界は永遠である。心は遠い過去から遠い未来まで自由に行き来できる。今の人たちは信じようとはしないかもしれないが、男は永遠のいのちというものを信じ切っている。だから男は「目の黒いうちに」という考え方を全くしていない。天に逆らうことをせず、天の命ずるまま、時の流れにゆったり身を委ねて「ものごとはなるようにしかならぬものである」と思っている。

人生で最も重要なことは、己の限界を知り、欲を出さず無理をせず、「吾只足る知って」義のあるところに最善を尽くすように努力することだと思う。言いかえればこの世における己の役割を自覚して、その役割を果たすように一生懸命努力することだと思う。しかし役割は一定不変ではない。状況によって役割も変わるだろう。その状況に応じて自分に与えられた役割を自覚し、その役割を果たすようにすればよいと男は思う。

男もかつて「自己実現」という言葉に抵抗感を覚えながら、無意識のうちに他者を巻き込んで己が欲する形を作り上げるためもがき苦しんだことがあった。人はそれを自己実現の過程のひとつの様相であると思っているだろう。しかし、それは違う。真の自己実現の過程にもがきや苦しみなどない。他者に自分のことを知ってもらう必要は無い。ある意味ではそれは自己満足だと批判されるだろう。しかしその批判を気にする必要は全くない。

自分に天が与えた役割というものを自覚できないでいると、人は自分の居場所がないと感じ、精神が不安定になる。そのような人に対して周囲の人が適切にアドバイスしてあげれば、その人は自分の居場所を見つけ出すことができるようになるだろう。人は自分と直接触れ合う人にしかアドバイスすることはできないものなのだ。

しかし求められてもいないのに出しゃばってアドバイスすることは馬鹿げたことである。国費を投じ、社会的にそのようなアドバイスの仕組みを作ろうと考えている人たちは、上述のように他者を巻き込んで自己実現を図ろうとするようなものである。現政権の「目線を一般大衆に置いて国政を行う」というようなスローガンは、国政の本質から外れるものであると男は思う。その延長線上に財政規律の破壊、国家の危機がある。かつての旧海軍のように、誰も結果責任を取らない芽がそこにある。(関連記事:「やましき沈黙(20091211)」)