2010年11月14日日曜日

先祖の祭祀(2010114)

 先日男の出身地の市役所支所で男の曾祖父母の戸籍抄本を取ろうと手続きをした。役所の吏員はコンピュータをたたいて男の曾祖父のデータを探し出してくれた。データは確かにコンピュータに記録されている。しかしその吏員は「除籍されているため出せません」という。男が「第三者に出すわけではなく、当のひ孫本人がここにきて、個人的に出して欲しいと言っているのになぜ出せないのですか?私は自分の先祖のことを調べ子孫に伝えたいのです、法律の根拠は何ですか?」と食い下がった。吏員は課長に相談した。課長は法律書を調べ、戸籍法関係規則の条文を見せてくれた。男は「法律はそうであっても、個人的にそっと教えてくれてもよいではないですか」と言った。課長は「お気持ちはよくわかるのですが、どうしてもできません」と言う。男は手続きの書類に「○○○(曾祖父名)と○○(曾祖母名)の生年月日」と記し、そのカウンターから去った。

 この国では核家族化が進み、先祖のことを大事にせず、今生きている自分が第一であるという風潮がある。先祖を大事にすると差別と言う弊害を取り除けないと考えられているのであろうか?この国の若い世代は自分の先祖のことはあまり知る必要はない、と考えているのではないかと思う。しかし男はそれは大いに間違っていると思う。

 男は先祖を大事にしていない家は子供の代になって何か良くないことが必ず起きていることをよく見かけている。その逆に先祖を敬い、先祖を大事に祀っている家はそれなりに栄えていることをよく見かけている。この国でも同様である。国のため尽くし、命を落とした方々を敬わなければ、この国の行く末は必ず危うくなる。全国民の宗家的存在である万世一系の天皇を大事にしなければこの国の行く末は必ず危うくなる。

 仮に一代に2人づつの子供がいるとして千年も経てば、子孫は1兆人になる計算である。そういう意味で、「○○家の先祖」といってもその先祖は○○家だけの先祖ではなく、他の家の先祖でもあると言える。しかし、○○家の一族が、意識の上で遠い祖先を共有し、その遠い祖先に思いを致し、今を生きるならば、その一族にはきっと幸せが訪れるであろう。

 男はおよそ1千年前の先祖に、父或いは母を通じてつながる一族の中心的存在である。男が生まれた土地には先祖が共通、家紋も共通な「新宅」と呼ばれてきた家があり、先祖の墓を守る親戚が近所づきあいをしている。しかしその「新宅」の跡取りはその父の代に火事に遭い、系図も何もかも焼失してしまったという。男の母方の叔父も戦後シベリアで抑留生活を送っている間に大切な系図を失ったという。今の時代、先祖のことが分からなくなってしまっている家が余りにも多い。

 男は自分がこの世を去ったら、自分の子たちは先祖のことが全く分からなくなってしまうことを心配し、自分の子たちにはきちんとしたペーパーや記録媒体で先祖のことを書きのこす作業を行っている。男は一族に呼びかけ、先祖の祭祀を執り行う場所を作り、男がこの世を去った後も毎年或いは隔年定期的に集って皆が共通の先祖につながる意識を持つようにしたいと考えている。