2010年11月1日月曜日

老朽化と死に支度(20101101)


  人間の体も一種の精巧な機械である。機械は長時間作動させ続けると徐々に老朽化してゆく。人間の身体の細胞は定期的に入れ替わり、怪我などで死んだ細胞が新しい細胞と入れ替わる。機械の場合は部品を取り換える。しかし人間も機械も寿命がある。

  機械は大事に使えば長持ちする。人間という機械も同様である。無理をすれば寿命が短くなる。かつて鉄道で使われていた蒸気機関車は退役後あちこちで展示されているが、鉄でできているため錆が進行し、いずれぼろぼろに壊れてしまう運命にある。人間も物質でできている以上、朽ちて姿・形が無くなって行く。人間は土から生まれ、土に還るというが、そのとおりである。

  一般に人間は73歳までは元気だという。73歳を過ぎると病気になりやすいのだという。老人は今73歳である。来年の誕生日以降老人の身体に何が起きるかわからない。気をつけなければならない。免疫力が低下すると途端に体調を崩しやすくなるだろう。「年寄りの冷や水」という諺があるが、年寄りは見かけが元気そうでも無理は禁物である。

  森重久弥は天寿を全うして他界したと言う。天寿を全うするということは、何も長生きしたというだけのことではない。人生において為すべき役割を果たしたということである。他界する年齢には全く関係がない。老人も今自分の役割を果たそうと日々心がけている。

  時間は誰にも共通である。人によって一日が例えば22時間であったり26時間であったりすることはない。誰にも共通の24時間である。この時間をどのように割り振って一日を過ごすかということが重要である。現役世代では、働くことに多くの時間を割かなければならない。例え自分が為したいことが別にあったとしても、働くためにその為したい願望を胸に秘めながら一生懸命働かばければならない。働くことがその時期の役割である。

  田舎のわが家の玄関の上り口の直ぐ見える所に、亡父が徳川家康公の遺訓を書いた札を掲げてある。老人は今、改めてその遺訓をかみしめている。遺訓は「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。 」というものである。

  73年間動いてきた自分の体という機械は徐々に性能が低下し、機能が衰えてゆく。性能や機能の低下に対処して、道具や器具をうまく使ってゆこうと考えているが、そのうちにその気持ちも思考力も衰えて行く。つまり、体力も気力も知力も衰えてくるのである。遂には他人の助力を受けることなしには生きて行けなくなってくる。その日はいつか?

  老人は日々あの世に行くための支度をしてゆこうと思い日々を過ごしているのであるが、出来栄えは7割で十分だと思っている。7割できれば合格である。ある意味では‘いい加減’である。‘いい加減’でも死に支度をしないよりはずっと増しである。今のうちに為しておかねばと思う死に支度は沢山ある。しかしそのうち7割ができれば十分である。そのようにして今日も一日、宇宙の時間軸に沿って24時間が過ぎて行く。

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