2012年4月9日月曜日


家事の分担(20120409)

 男は大いに家事を手伝っているつもりである。食事の後片付け・食器洗いは男の分担と決めている。それ以外あれこれ恒常的でない作業がある。例えば部屋の掃除とか、女房が外出して男が在宅のとき洗濯物を干すとか取り入れるとか、金魚や熱帯魚の水槽の清掃・水の入れ替えとか、また母が施設に入ったので誰も住んでいない田舎の家の管理のこととか男がしなければならない仕事もある。食事つくりは女房が行っている。洗濯は洗濯機が自動でやってくれるが、洗濯機に洗濯物を入れたり洗濯が終わった洗濯物を干したりするのは女房の仕事である。男は家事を相当分担していると思っていても、女房から見れば女房は男以上に家事に時間を割いていると思っているようである。しかし、もし男が料理作りが好きで、たまには腕を振るって格別美味しいものを作ってやるならば、女房は大満足であるに違いない。

 もしわが家が広く資産家であれば家に使用人など住みこませ、家事の多くをその使用人にやってもらうならば、男も女房も家事に要する時間を他に使うことができるだろう。しかし一方でその使用人が家の中に家族同然でいるだけで人間関係の煩わしさが生じるだろう。また家事に要する時間を減らすことができたからとて、その浮いた時間をどれだけ有意義なことのために費やすことができるかどうかは疑問である。

 一つ確かなことがある。家事というものはやればきりがないということである。例えば家の中をいつも綺麗に清掃し、整頓するということもその作業を行えば行うほど次々と目につくものが出てくるものである。男が家事に時間を割いていると女房はその間更に別の家事に時間を割く。お互い綺麗好きだしやろうとすればやることは沢山ある。しかしそれぞれ自分でやりたいことがあるので、お互いほどほどのところで線を引いている。

 たまたま男がきりきりと集中して自分の作業をしているとき女房から別の注文が出たりすると、男は多少いらいらした状態になり女房と衝突することがある。「今、これこれしかじかのことをやっているのだ。俺のやっていることを理解して欲しい」と言う。一般的に男は社会との関わりの深いことに興味があることに対して、女は家庭的なことや身近なことに興味がある。男は先祖の祭祀や子子孫孫のことに関心があるのに対して、女は友達とか子供のことに関心がある。

 今日は女房と横浜市本牧にある三溪園の桜を観に行った。その後男は週一回の陶芸教室で素焼きが終わっている作品に釉薬をかける作業をした。男が作ったものは黒泥という土を使った中皿2個である。釉薬はS先生のアドバイスで内側をチタン、外側をトルコにした。最初に内側の上部淵のところまでチタンをかけ、乾かしてスペーターを塗り、その後トルコ釉の中にどんぶんと漬けてその釉薬を塗るのである。スペーターを塗ったところにはトルコ釉はくっ付かない。だから「スペーター」という。

 陶芸の帰途、男は新横浜のビックカメラに立ち寄ってキャンノンプリンター純正用のインクを買って帰った。これは消耗品とはいえ1セット4千円以上する。男は帰宅後そのプリンターのインクを好交換した。キャノンプリンターは主として女房がデジカメで撮った花の写真の印刷などを主目的に使っているものである。男の分担事項には女房がすることはないこのような仕事もあるのだ、と男は言いたいと思っている。

 夕食後テレビで最近若い人たちの間で自分の日々の生活の記録を残すことが流行っているらしいことを知った。例えば買い物をしたりレストランで食事をしたりした時、その都度デジタル写真を撮って保存したり、日記帳を持ち歩いてその都度書き込んだりする。そういう人が増えたという。その記録保存のため無料のアプリケーションが利用されているらしい。そのような人生の記録は誰のためでもなく、自分自身の満足のためという。

男はそのようなことには全く興味がないと思っている。しかしものを書いて自分の子子孫孫に読んでもらおうなどと考えるところは、結局は誰のためでもなく自分のためである。それは家事分担外の男の仕事ではなく、女房が言うように男の趣味の範囲のものである。

 独身者は気楽なもののように見える。自分の時間について傍でとやかくいう者はいない。部屋の中がどのように散らかっていようと誰からも文句を言われない。しかしそれで幸せかというと決してそうではないだろう。家庭を作り、子供を授かり、子育てをし、立派に育て上げ、社会に送り出すことはいろいろ苦労も多いが、幸せなことである。