2012年4月8日日曜日

時は過ぎて・・(20120408)

 男は人生の一時期、日本の通信衛星事業に関わる仕事に携わり、非常によい経験をしたことは有り難いことであったと思っている。今から26年前、男は日本初の民間通信衛星の事業を行う会社に転職した。それもある日、男は日本にそのような会社が設立されていたことも知らずに上司に退職を申し出た。するとその上司は「俺もお前に話があるのだ。Iさんに会え」という。そのIさんに初対面であったが厚かましくもそのIさんのお宅を訪問した。そしていろいろ話しているうちに、「日本通信衛星株式会社という会社が虎ノ門にある。人事部長のMさんに会って来なさい」という。そこで地下鉄虎ノ門にあるその会社を訪問した。するとそのMさんは男を食事に誘いその席で「すぐ英語と日本語の履歴書を書いて来て下さい」という。

男は英語の履歴書の書き方を知らなかった。本屋でそのハウツー本を見つけ、手書きで履歴書を書いて持って行った。社長室に通され、社長室で社長・副社長・アメリカ人の常務と会った。そしてその会社に採用されることになった。入社日は夏のボーナスなどの関係で52日と決まった。その前日、男は航空幕僚長室で退職の申告をした。申告の内容は「5月2日付をもって退職を承認されました」というものであった。その時航空幕僚長からは「何処に行っても国の為じゃ、頑張れ」との言葉を頂いた。以来、男はその「国の為」という言葉を忘れることはなかった。

 男はある日女房と一緒に、男が入社後働くことになる衛星追跡管制施設の建設予定地に行ってみた。その時はまだただの山林で近くに1、2軒の農家があるだけだった。男は上司がアメリカ人である技術部門に配属され、10人の技術関係社員とアメリカで衛星追跡管制技術に関する研修を受けた。研修期間は職種によってまちまちであるが、赤道上空36千キロメートの軌道上にある通信用衛星の位置や姿勢をコントロールする地上用設備の技術研修は6か月間であった。研修を終え帰国したらその建設予定地には既に建物が建っていた。男たち基幹要員10名がアメリカで研修を受けている間に、日本では日本初の民間通信衛星事業の開始に向け寝食を忘れ頑張っていた社員たちがいた。男の初仕事は合弁事業を行うアメリカの会社が製造し、設置し、使用できるようにした衛星追跡管制システムの領収検査を行うことであった。男が領収検査を行った証として署名し、男のアメリカ人上司が署名することによって領収は完了した。社内の書類はすべて英語、会議も英語であった。衛星は赤道上空の所定位置で使用できる状態になって引き渡された。つまりその時をもって一合弁会社の民間企業が初めて通信衛星を保有することになった。

 アメリカで研修を受けていた男たち10人は、製造中の日本初の通信衛星の組み立て工場を見学したことがあった。その衛星は南米ギアナの打上げ基地からフランスのアリアンロケットでヨーロッパ初の気象衛星と一緒に打ち上げられた。そのとき男らは管制施設内の管制室の中の一画でリアルタイムで衛星打ち上げ時の様子をモニターし、軌道に投入された衛星からの信号を確認した。衛星は地上からの電波と衛星からの電波の信号により、衛星の位置・姿勢・搭載されている電子機器の作動状態が判るようなっている。ガラス越しに関係者らが室内の状況を見ていた。打ち上げ成功・軌道投入成功の瞬間拍手が起きた。

打ち上げまでの状況をまるで本職のアナウンサーのように透き通った低いトーンの声で次解説したN氏は、昨年がんで逝ってしまった。当時の社長も次の社長も、また男が家族つきあいをしていた男の上司も鬼籍に入ってしまっている。男はその奥さんとは同じ年であり今でもお互いホームステイしたこともあったりなどして親しく交流を続けている。

 今日、その当時はまだパラボラアンテナが3基しか建っていなかったが現在は施設が拡張され多数のパラボラアンテナが立ち並び、大変立派になったその衛星管制施設に、当時の関係者が招かれ、施設内に咲き誇る満開の桜を愛で、現在の状況について説明を受け、施設内を見学し、旧交を温める会が催された。

若くして逝ってしまった会社の宝のようなN氏の肉声が流れる1号衛星打ち上げの様子をビデオで見ながら男は感じた事がある。今、今北朝鮮が衛星を打ち上げると称してミサイルを発射しようとしている。打ち上げるものが衛星であろうとミサイルであろうと打ち上げまでには綿密な手順を踏む筈である。日本初の民間の通信衛星は3段ロケットで打ち上げられたが、北朝鮮のロケットは2段である。国が貧しく人々が餓えている国が、何故そうまでして頑張るのか。日本はそのミサイルが何処に飛んでくるのか相手の意図を読みながら、北朝鮮のミサイル迎撃事態のため万全の備えをしている。