2012年4月29日日曜日


義経の愛妾・静御前、鎌倉八幡宮の舞台で頼朝の前で歌い舞う(20120429)

 2週間も田舎に帰っていて戻ってくると、片づけなければならないことが沢山溜まっている。物事はできるだけシンプルにルーティン化しておかなければ時間はいくらあっても足りない。このところフェイスブックには疎遠になっている。フェイスブックでは自分は五十肩のようなものを発症し、もう高齢だから特別なことはない限りフェイスブックへの投稿は止めると宣言した。その後もその‘特別なこと’のため一、二度投稿はしたが・・。

 先ほど、夕方7時過ぎ、いきなり地震速報が出て、千葉県東沖震源の地震が起きて少し揺れた。一応大地震発生時の対策を講じてはいるが、こう度々小さな地震が頻発すると、「またか」とその地震が収まるのを待つだけで、緊急避難する心構えは何処かにやってしまっている。これでは「いざ」というとき何もしていないのと同じである。今後は緊急地震速報が出たときには、すぐ飛び出せるような動作を習慣づけておくべきである。息子から電話あり「まず玄関のドアを開けること」とアドバイスがあり、もっともだと思った。

 年のせいであろう、男も女房も婆さんの介護に関連するいろいろな雑用事で疲れがたまっていて、それが今頃出ている。こういうときは無理をせず休養に努めた方がよい。それでも今日は好天気であり湿度も高くないので先日クリーニングした冬物衣服を収納したり、いろいろ雑用事に追われる。男は腰が少し痛い。左上腕は痛みはなくなったが重い。

 それも片付けながら一方で男は自分自身に課しているブログ投稿の準備をしている。吟詠のブログには、本来ならば月内に翌月の吟詠をアップロードするのであるが、今回はその時間的余裕がなかった。吟題は頼山陽の『静御前』である。そのURLは次のとおり。
 http://takaban.seesaa.net/article/267879482.html

 源義経の愛妾・静は義経が兄・頼朝による追討から逃れるため義経と一緒に吉野山へ逃げたが其処で風雪に遭い、義経とは別れた。義経は平家追討にあたって大活躍したのであるが、兄・頼朝の許可なく検非違使(けびいし)・左衛門尉(さえもんのじょう)に任官したことから頼朝の不興を買い、追討を逃れて静御前を伴い弁慶など家来たちと一緒に諸国を流浪した。

 静御前は腹に義経の子を宿していたが吉野山から京都に帰る途中捕えられて母親と共に鎌倉に連れて来られた。その理由は義経の捜索の為である。静御前は義経の兄・頼朝に強く求められて頼朝ら関東武将たちの前で舞を舞った。そのとき詠じた短歌が二つある。静御前は頼朝に弟・義経えの追討を止めるように願っているが、それはかなわなかった。静御前の歌の内容が頼朝を怒らせ、頼朝は静御前を生かしておけないと考えたが、妻の北条政子のとりなしでその場は収まった。

 それどころか、鎌倉で生んだ義経の子が不運にも男の子であったため、生まれて間もなく取り上げられ、殺されてしまう。それら一連の事件は歴史書『吾妻鏡』に出ている。男はブログに頼山陽『静御前』に関する記事を書いてその吟詠とともに明日アップロードしたいと思っている。だから一層忙しいのである。

 なお、頼朝の前で舞いながら詠じた短歌は次の二題である。「白拍子」といって、今で言う「遊女・芸者」のようなものであった静は京都で義経に見初められて深い仲になった。その静の女心がよく表れている詩(短歌)である。

  賤(しず)や賤(しず) 賤(しず)の緒だまきくり返し 
                昔を今に なすよしもがな
  吉野山 峯の白雪ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき