2012年5月8日火曜日


卑彌呼は神功皇后である(20120508)

 三韓征伐した神功皇后(息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト))(170 -26963日)は、『三国志・魏書・東夷傳・倭人(通称、「魏志倭人伝」)』にある卑彌呼が、後漢の光武帝から「漢委奴国王印」を贈られている時期と重なる。「魏志倭人伝」によれば、女王・卑彌呼は、景初三年(239年)にシナの明帝に使を送り、同年12月(陰暦であろう)に「親魏倭王卑弥呼に制詔す。(後略)」という詔書と金印を下されたこと、また少帝の正初四年(243年)に再び使いを送ったことが書かれている。別の史料(北史)には卑彌呼は魏の年号である正始(240248年)中に死んだとある。

倭国がシナに使いを送った時、239年には男生口四人・女生口六人他品々、243年には献上された「生口」他品々の記述があるだけで人数は書かれていない。なお、卑彌呼が死んで卑彌呼の宗女・臺與が立てられたときも男女生口三十人他品々を貢いだと書かれている。

 「魏志倭人伝」には、卑彌呼も臺與も国内が男王ではまとまらず争いが絶えなかったため、王に立てられた。彼女たちは倭の奴(な)国の統率者であったというようなどが書かれている。その奴国は今の博多付近である。博多に近い福岡市東区に旧官幣大社の香椎神社がある。この神社は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・住吉大神を御祭神とするが、今は仲哀・神功の二座を祀っている。「魏志倭人伝」は、シナ人が史実の断片を取材して書いたものである見るべきである。従い、これを読む場合はこれに書かれていないことも入力して、史実を判断しなければならない。


 そして「魏志倭人伝」には、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」とある。もし、女王卑彌呼が神功皇后ならば、「南」を「西」に読み替えれば、神功皇后が住んでいたところは大和盆地であり、仲哀天皇の第二妃として仲哀天皇に随行して九州の熊襲など征伐に出かけたが、熊襲が仲哀天皇に従わないのは新羅の差し金のせいであるとして仲哀天皇薨去後海を渡って三韓征伐を行い、引き揚げてから大和王権を自らの御子・応神天皇による大和王権を確かなもの大和盆地に戻ったと考えられる。

 その熊襲のことについて「魏志倭人伝」には、奴國の南にある熊襲が女王に服従しなかったことが書かれている。「其の南に、狗奴國有り、男子を王と爲す。其の官の狗古智卑狗有り。女王に属せず」と書かれている。「狗奴國」は熊襲の国であり、「狗古智卑狗」は菊池(久久智)彦のことであるとされる。
 
なお、『後漢書東夷伝』には後漢光武帝の年号である建武中元二年(57年)「倭の奴國、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と稱す。倭國の極南界なり。光賜うに印綬を以ってす」とある。発見された金印はその時のものではないかと考えられる。

また安帝の永初元年(107年)に「生口百六十人を献じ」とある。「生口」は被征服の民で征服者が所有し、労働力などの目的に使われた人々である。被征服の民は大和王権確立に至る国内戦争の過程で捕虜となった人々である。日本国内各地に大王が割拠していた古墳時代のことであるから、征服された地域の人々は、ミトコンドリアDNAY染色体DNAのハプロタイプ別分布の濃淡はあるにせよ、既に縄文人と渡来系弥生人が混血している人々であったであろう。皆現在の日本人の祖先である。

神功皇后は北九州の王家配下の倭人たちが展開していた朝鮮半島で、その倭人たちの軍を指揮し、三韓征伐を成功させた後に大和盆地に戻ったと考えられる。北九州の王家は元々神武天皇の本家であった。大和の天皇家(近畿天皇家)確立後、本家である北九州の王家は近畿天皇家に服従することになったと考えられる。

『古事記』には、品太王(ホムダノミコト)の五世(いつつぎ)の孫(みこ)のを本杼命(ヲホドノミコト)(後の継体天皇)(50724- 53127日)の御代、527年に「竺紫(ちくしの)君石井(いはい)、天皇の命(みこと)に従わずして・・(中略)・・・石井(いはい)をころしたまひき。」とある。実行は物部、大伴の二人と書かれている。