2012年5月20日日曜日


聖武天皇(5)「隼人・蝦夷に対する仏教による教化」(20120520)

 当時奈良の都からみて辺境のような遠い土地であった今の鹿児島や東北は、なかなか大和朝廷の支配下には入ろうとしなかった。しかし最終的にはそれらの地域に住む人々は大和朝廷の支配下に入り、日本は統一された。その過程で薩摩の隼人や阿多・東北の蝦夷に対する仏教による教化が、第四一代持統天皇(686年~697年)の御世の2年目頃から行われるようになった。仏教を全国にひろめるため、第四五代聖武天皇は奈良に東大寺と全国各地(各国)に国分寺をお造りになられ、教育制度などを確立された。しかし蝦夷が完全に大和朝廷の支配下に入るまでには捕虜にした蝦夷たちの強制移住と復帰などいろいろなことがあった。以下、『続日本紀』と『日本書紀』から興味と関心がある部分を“”で引用する。

 “十一月二十三日 大嘗祭(だいじょうさい)を行った。”
 “十一月四日(日付の乱れ) 諸国の長官・秀才(秀才試験の合格者)および公務に精励している人たちを招き。宮中で宴を賜り、それぞれに絹糸十絇を賜った。”
 “神亀二年(725年)正月十五日 大初位(だいそい)下の漢人(あやひと)法麻呂(のりまろ)に中臣志斐連(なかとみのしひのむらじ)という姓(かばね)を賜った。”

 大初は下から3番目、4番目の低い官位である。大初上は上から26番目の従八位下、下から4番目の、要するに最下級層の官人の官位である。日本に帰化していた漢人の子孫がそういう官職に就いていた。勿論、帰化漢人の子孫でも非常に高い官職に就いていた人もいた。征夷大将軍坂上田村麻呂などがそれである。連という姓は臣民でも非常に高い階層に与えられているものである。帰化人の子孫で最下級層の官人であった人が何か功績があって、臣下として高い身分を与えられたということである。

 “神亀二年(725年)正月二十四日 華蓋(けがい)(笠の形をして北極星の上にある星座)のところに彗星が現れた。”
 “閏正月四日(日付の乱れ) 陸奥(みちのく)国の蝦夷(えみし)の捕虜百四十四人を伊予(いよ)国に、五百七十八人を筑紫(ちくし)(九州)に、十五人を和泉監(いずみのげん)にそれぞれ配置した。”
 “三月十七日 常陸(ひたち)国の百姓で、蝦夷の裏切りで家を焼かれ、財物の損失が九分以上の者には、三年間租税負担を免除し、四分以上の者には二年間、二部以上の者には一年間、それぞれ租税負担を免除した”

 蝦夷とは、古代東北地域に居住していた人びとのことである。彼らは大和朝廷による日本全国統一の過程で朝廷に抵抗した勢力で、朝廷側から一方的に付けられた呼称である。朝廷側は彼らとの戦に勝って捕えた人々を捕虜にし、九州や現在の愛媛県に強制的に隔離した。これは後に元の居住地に戻されている。なお、それ以前は隼人と言われる薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々が大和朝廷に反抗していた。

 以下は、岩波文庫『日本書紀』(1995316日第1刷、199846日第5刷)に出ている記事であるが、引用記事を“”で示す。

 持統三年(688年)“三年の春正月(はるむつき)丙辰(ひのえたつのひ)に、務大肆陸奥国(むだいしみちのくに)の優曇郡(うきたまのこほり)の城養(きかふ)の蝦夷脂利古(えみししりこ)が男(こ)、麻呂(まろ)と鉄折(かなをり)と、髭髪(ひげかみ)を剔(そ)りて沙門(ほふし)と為(な)らむと請(まう)す。詔(みことのり)して日(のたま)はく、「麻呂等(まろら)、少なくとも閑雅(みやび)ありて欲(ものほりす)ること寡(すくな)し。遂(つひ)に此(ここ)に至(いた)りて、蔬(くさびら)食(くら)ひて戒(いむこと)を持(たも)つ。所請(まう)すままに、出家(いへで)して脩道(おこなひ)すべし」とのたまふ。

 「務大肆」は脂利古に係る冠位である。「曇郡」は出羽国置賜郡で現在の山形県南部、米沢盆地とその西一帯のことである。「城養」は大和朝廷の防衛施設のことである。「蔬」は野菜のことである。僧侶になりたいならば、髭を剃り、頭をまるめて野菜食とし戒めを守り修行せよ、と諭している。

 また、持統六年(691年)閏五月(のちのさつき)の“己酉(つちのととりのひ)(十五日)に、筑紫大宰率(ちくしのおほふこともちのかみ)河内王(かわちのおほきみ)詔して日(のたま)はく、「沙門(ほふし)を大隅(おほすみ)と阿多(あた)とに遣わして、仏教(ほとけのみのり)を伝ふべし。”とある。大隅はのちの大隅国(鹿児島県東部)、阿多は薩摩国(同西部)で、両隼人はのちに首長にひきいられて定期的に朝貢し、隼人司に所属して朝儀に吠声を発し、風俗の歌舞を奏するなどのことに奉仕している。