2012年5月22日火曜日


聖武天皇(7)「刑の執行に恵みを垂れることがなくてよかろうか」(20120522)

 以下『続日本紀』より“”で引用する。神亀二年
“九月二十二日 次のように詔した。(初めの部分略)朕は徳少なく才能がうすい身で皇位をうけつぎ、戦々競々として、夕べになるとおそれつつしんで、一物でも失うことがなかったかと案じ、いのちあるものの生活が安らかであるようにねがっている。しかし天の教えと命令は明らかでなく、まことの心を尽くしても感応がなく、天は星の運行は異状を示し、地は震動を起こしている。仰いで考えてみると、この責任は深く自分にあると思う。(後略)”

 “十月二十一日 摂津(せっつ)国の人、少初位(しょうそい)下の掃守(かにもり)連族(やから)広山(ひろやま)らは姓(かばね)から族(やから)の字を除かれた。”
 “十月二十九日 昼に太白(金星)と歳星(木星)の光の穂先が互いに合った。”
 古代は大気の汚染がなく、日中でも空の星が見えていたのだろうか?

 “十一月十日 (前略)中務少丞・従六位上の佐味(さみ)朝臣虫麻呂(むしまろ)と典鋳正(てんじゅのかみ)(鋳物司の長官)・正六位上の播磨(はりまの)(あたい)弟兄(おとえ)にそれぞれ従五位下を授けた。弟兄は初めて甘子(かんし)(柑橘類の一種)を唐から持帰り、虫麻呂は初めてその種を植えて実を成らせた。それでこの授位があったのである。”
 身分としては「朝臣」姓が「直」姓より上なので、従六位の虫麻呂が先に書かれているのであろうか? 虫麻呂・弟兄両名とも功績により特別昇進して同じ従五位下になった。
 
“十二月二十一日 次のように詔した。
死んだ者は生き返ることができない。処刑された者はもう一度息をふき返すことがない。これは古典にも重要なこととされたことである。刑の執行に恵みを垂れることがなくてよかろうか。今刑部省の奏上した在京および天下諸国の現に獄につながれている囚徒のうち、死罪の者は流罪に、流罪の者は徒罪(ずざい)に減刑せよ。徒罪以下の者については、刑部省の奏上のようにせよ。”
当時のこととして誤審もあったかもしれない。冤罪で死罪の判決を受けた者もいたかもしれない。聖武天皇は、人々の命を最も大事にされたのである。