2012年5月27日日曜日



聖武天皇(12)「長屋王の変(1)」(20120527)

 長屋王は藤原不比等(ふじわらのふひと)薨去後、皇親の代表として当時の政界の中心的存在となり上は天皇しかいないという地位にあった。今で言えば内閣総理大臣のようなものである。この立場は非常に重要である。いささかも天皇のお立場を汚すものであってはならない。

その長屋王は自分より16歳(別史料によれば24歳)年下の聖武天皇に対し、聖武天皇のご生母の呼称について「大夫人(おおきさき)」と呼ぶのは公式令(くしきりょう)に基づけばおかしいので、「皇太夫人」とすべきであるが、いかがいたしましょうか、とお伺いを立てた。聖武天皇は24歳でご即位の一か月後、自ら発表したご生母の呼称「大夫人」を、さらにその1か月後に「文書に記す場合は皇太夫人とし、口頭では大御祖(おおみおや)とし、先勅での大夫人の号を撤回して、後の号(皇太夫人と大御祖)を天下に通用させよ」と以前の勅を変更する詔をされた。聖武天皇のご生母は藤原不比等の娘・宮子であった。これは内閣総理大臣のような立場にあった長屋王の最初の失敗である。

長屋王は、自害する二日前、元興寺で行われた法会(ほうえ)で、僧侶の食事の配備所にやってきて、施しを受けている沙弥(しゃみ)(在家の仏教信仰者)をみて叱責して手にしていた笏で打った。その沙弥は頭から血を流し恨めしそうに涙を流して、たちまちにしていなくなったという(渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』より引用)。これも自分の立場をわきまえない長屋王の失敗である。そのとき長屋王は46歳(別史料に基づけば54歳)であった。

 当時の状況を今の日本の状況に照らし合わせてみると、「日本は日本人だけのものではない」というようなことを言った鳩山元首相や、天皇がご臨席された行事に「(大震災後の)公務多忙だから」と出席しなかった菅元首相は天皇に対する自分の立場をよく弁えていたであろうか? 小沢氏にいたってはシナ(中国)に140名もの国会議員を連れてゆき、一人一人を胡錦濤国家主席に‘拝謁’(握手)させ、自らは差し回しの大型高級車でさながらあたかも‘国家元首’のように振る舞った。次期国家主席予定者習近平氏を、宮内庁を恫喝して強引に天皇陛下に引き合わせた。そのシナ(中国)では、習氏が天皇に挨拶のため頭を下げている写真は報道されなかったという。そのうえ、韓国のソウルの大学で「天皇の先祖は騎馬民族で韓国人と同じである」というようなことを言った。これも天皇をないがしろにした非常に不敬な行為である。

 『続日本紀』にある長屋王の変関連の記事を“”で引用する。
 天平元年(729) 二月十日 左京の住人である従七位下の塗部造(ぬりべのみやっこ)君足(きみたり)と、無位の中臣宮処連(なかとみのみやこのむらじ)東人(あずまひと)らが「左大臣・正二位の長屋(ながや)王は秘(ひそ)かに作道(さどう)(邪道。ここでは妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしています」と密告した。天皇はその夜、使いを遣わして三関(鈴鹿(すずか)・不破(ふわ)・愛発(あらち))を固く守らせた。またこのため式部卿・従三位の藤原朝臣(ふじわらのあそん)宇合(うまかい)・衛門佐(えもんのすけ)の従五位下の佐味(さみ)朝臣虫麻呂(むしまろ)・左衛士佐(さえじのすけ)の外従五位下の津嶋(つしま)朝臣家道(いえみち)・右衛士佐の外従五位下の紀(き)朝臣佐比物(さいもつ)らを遣わして、六衛府の兵士を引率して長屋王の邸を包囲させた。

 二月十一日 太宰大弐(だざいだいに)・正四位上の多治比真人(たじひのまひと)県守(あがたもり)、左大弁・正四位上の石川(いしかわの)朝臣石足(いわたり)、弾正尹(だんじょうのかみ)・従四位下の大伴宿禰道足(おおとものすくねのいわたり)の三人を権(かりに)参議に任じた。巳(み)の時(午前十時前後)に一品(ぽん)の舎人(とねり)親王と新田部(にいたべ)親王、大納言従二位の多治比真人池守(いけもり)、中納言正三位の藤原武智麻呂(むちまろ)、右中弁・正五位下の小野(おの)朝臣牛養(うしかい)、少納言。外従五位下の巨勢(こぜ)朝臣宿奈麻呂(すくなまろ)らを長屋王の邸に遣わし、その罪を追求し尋問させた。
 
 長屋王は天武天皇の第一皇子・高市皇子と天智天皇の皇女の子である。舎人親王と新田部親王もともに天武天皇の皇子(おうじ)である。聖武天皇は天武天皇の孫・文武天皇の第一皇子である。ウイキペディアには「長屋王の変は長屋王を取り除き光明子を皇后にするために不比等の息子で光明子の兄弟である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている」と書かれているが、推論の域を出ていない。それをあたかも真実の如く書いているのは、歴史研究家としては決して正しい態度であるとは言えない。このウイキペディアの記事を書いた人は藤原氏に対するある種の偏見をもっていると言わざるを得ないだろう。