2012年5月29日火曜日


聖武天皇(14)「日本最古の総合大学」(20120529)

 ユネスコより世界遺産に登録されている東大寺の建設は、聖武天皇(在位:神亀元年二月四日(72433日)~ 天平勝宝元年七月二日(749819日))が財政悪化・社会混乱という国難の最中、全国各地の国分寺・尼寺とともに国家の大事業として推進されたものである。

 “東大寺は現代でいえば、国立の総合大学のようなもので、広いキャンパスを擁し、今は存在しておりませんが、大仏殿の後方には巨大な講堂が聳え、それをコの字型に囲むようにして、寄宿舎と大学の校舎を兼ねた僧坊が建てられ、そこには一〇〇〇名の見習僧たちが住みました。彼らは一六歳前後で全国から推薦されて集まり、六つの学派に分かれて、教授に当たるそれぞれの師僧について勉学しました。

 見習僧たちはまず五明(五つの学問)といって、五つの科目を学びました。それは声明(しょうみょう)(言語・文法)・因明(いんみょう)(仏教論理学)・内明(ないみょう)(仏教教義)・工巧明(くぎょうみょう)(建築・土木)・医方明(いほうみょう)(医術・薬草)からなっており、これらの五つの学問の修得はインド仏教以来の伝統でありました。当時の僧侶には、仏教そのものよりも工学系や医学系の技術で名を成した者が多いのです。なかには優秀な技術が買われ、政府の命令で還俗する者もおりました。

 見習僧たちは所定の学業を修めるとまた地方に帰り、その地の文化の向上や経済の発展に貢献しました。奈良時代で最も有名な僧侶は行基でありますが、彼は巨大な灌漑用の溜池を築いたり、灌漑水路を掘ったり、川に橋を懸けたりしながら、各地に寺院を建て、そうした工事の拠点にしました。行基は東大寺の建立にも貢献しています。

 また聖武天皇の侍医として最後まで側に仕えたのも僧侶でありました。法栄という僧侶で、彼は僧侶でありながら九州で医者としての名声を上げ、天皇に抜擢された人物です。

 ところで、仏教にもさまざまな見解があり、奈良時代には中国から伝わった六つの学派がありましたが、見習僧たちはいずれの学派の教義も学ぶのが習わしで、これを六宗兼学、その後の平安時代では八宗兼学と言いますが、この兼学の習慣はやがて「一宗一派に偏らない」という考え方を生み、東大寺の伝統となりました。”(以上、森本公誠著『世界に開け華厳の花』春秋社より引用。)

 天平十五年(743年)十月十五日、聖武天皇は次のように詔された
 「ここに天平十五年、天を十二年で一周する木星が癸未(みずのとひつじ)に宿る十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅象(こんどうぞう)一体をお造りすることとする。国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏堂を構築し、広く仏法を全宇宙にひろめ、これを朕の知識(ちしき)(仏に協力する者)としよう。そして最後には朕も衆生(しゅうじょう)も皆同じように仏の功徳を蒙り、共に仏道の悟りを開く境地に至ろう。・・(中略)・・もし更に一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも捧げて、この造仏の仕事に協力したいと願う者があれば、欲するままにこれを許そう。国・郡などの役人はこの造仏のために、人民のくらしを侵しみだしたり、無理に物資を取り立てたりすることがあってはならならぬ。国内の遠近にかかわらず、あまねくこの詔を布告して、朕の意向をしらしめよ。」(『続日本紀(中)』(講談社学術文庫・宇治谷孟全現代語訳より引用)

 国分寺建設の詔は天平十三年(741)三月二十四日発せられた。「(前略)そこで全国に命じて、各々に七重塔一基を造営し、あわせて今光明最勝王経と妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)をそれぞれ一揃い書経させよう。朕はまた別に、金泥で今光明最勝王経を手本に習って写し、七重塔ごとにそれぞれ一部を置かせる。・・(中略)・・国司らは各々に国分寺を厳かに飾るように努め、あわせて清浄を保つようにせよ。・・(中略)・・遠近に布告を出して、朕の意向を人民に知らせよ(後略)。」(『同(上)』(同上)

 東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。(ウイキペディア)

 聖武太上天皇は天平勝宝八年(756年)五月二日崩御された。大仏(盧舎那仏)の鋳造が終了し大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝四年(752年)夏四月九日のことである。開眼供養は天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として行われた。