2012年5月6日日曜日


渡来系弥生人は韓国北朝鮮人とは別種である(20120506)

 朝鮮半島にはツングース系の民が進出していた。天智三年(663年)、百済を救おうと41千人の日本軍が現在のソウルの近くの白村江に赴いたが、其処で唐(シナ)・新羅連合軍に海陸から挟み撃ちにあって大敗し、以降日本は神功皇后の三韓征伐以降約400年間権益を有していた朝鮮半島から撤退した。その時非常に多くの百済人が日本に引き揚げてきた。朝鮮半島に居た「倭人」と呼ばれた人々も一緒に引き揚げた筈である。

それから約350年後、寛仁3年(1019年)に「刀伊の入寇」といって高麗語で「野蛮な民」という意味のtoi(刀伊)の海賊集団が日本の壱岐・対馬を襲い筑前まで侵入して老人・子供365名を殺害し、壮年の男女1289名を拉致し、45棟以上の人家を焼き、牛馬380頭を食い荒らすという事件が起きた。この刀伊は朝鮮半島から日本軍が撤退した後朝鮮半島に侵入して来た別系統のツングース系の民であろうと考えられる。

彼らはエヴェンキの一派ではないかと考えられる。彼らは同じツングース系といっても古代、日本に渡来し帰化した人々は別の文化・習俗をもつ人々である。現在の韓国・北朝鮮は、元々進出していたツングース系の民と、後に朝鮮半島に侵入して来たエヴェンキと呼ばれるツングース系の民の二種類の民を先祖に持つ人々の国家であると考えられる。更に「倭人」の血をひく人々の子孫も少数いるであろう。豊臣秀吉が朝鮮に出兵し、撤退したあと残った人々の子孫も現に存在している。

 遺跡から出土した人骨を元に復元された渡来系弥生人の容貌を見ても分かるとおり、渡来系弥生人は現在の韓国北朝鮮の人々の容貌とは異なっている。日本列島にジャポニカ種の米を持ちこんだのは渡来系弥生人で、現在の韓国北朝鮮人の祖先とは別種である。朝鮮半島経由で日本にやってきた渡来系弥生人は『Newton 最新版 日本人の起源』によると長江下流域から黄海の下辺から朝鮮半島南部経由で北九州にやって来ている。ジャポニカ稲作は先ず彼らが日本に持ち込んだに違いない。

5000年前から2500年前までの気候の寒冷期の間に北方から現在の漢族のルーツにあたる人々の集団が南下して、長江中下流域でそれまで黄河流域よりも1000年古い文明を築いていた人びと苗(ミャオ)族などを圧迫した。北方の漢族のルーツの人々は畑作・牧畜の民で長江中下流域の人々はジャポニカ稲作・漁労の民であった。北方から南下してきた畑作・牧畜の民であった漢族は青銅器文明を持っていた。長江流域で二つの文明が融合したが漢族に追われた稲作・漁労の民は雲南省の山岳地帯に逃れ、雲南省の滇(てん)池のほとり紀元前400年から紀元後100年くらいの間に一つの王国を築いた。滇(てん)王国という。おそらく滇王国の人々は漢族との混血した人々であっただろう。

滇王国の文化・習俗は日本のそれとは良く似ている。日本に初めにボートピープルとして2ルートで日本にやってきた人々とその後滇王国の時代に日本にやってきた人々とは、ルーツは同じでも多分漢族との混血の有無や日本に持ち込んだ文明・文化・習俗に違いがあったであろう。初期渡来系弥生人はシナの苗族など古代四川省の民と同じであったに違いない。漢族に圧迫された人々は雲南省山岳地に逃れる一方で、多分漢族との混血もあり滇王国を築いた。その文化習俗は元々いた苗族などの人々の文化習俗を色濃く残し、さらに北方漢族が持ち込んだ青銅器文明を有するものであった。(参考図書『古代日本のルーツ 長江文明の謎』安田喜憲著・青春出版社)

滇王国の人々は造船・航海にも長けていたであろう。ボートピープルにならずとも交易を求めて日本各地にもやって来たにちがいない。越前・越中・越後の「越」という文字はそれとなにか関係があるかもしれない。現にそれを裏付けるような考古学的資料が何点も出土されている。世界的な低気温の影響を受けて各地で動乱が起き、後漢も滇王国も日本の弥生時代も終わった。後漢終期後漢の滅亡とともに朝鮮半島から漢人や韓人たちが大量に日本にやって来て帰化した。『日本書紀』にはそのことが書かれている。

渡来系弥生人や後漢滅亡後日本にやって来た漢人や韓人は、今の韓国・北朝鮮人たちとは全く違う人々である。古代日本に朝鮮半島から渡来してきた百済人・高麗人・新羅人は元々朝鮮半島にいた人々であり、後から朝鮮半島に侵入してきた北方の狩猟・遊牧の民とは異なる人たちである。