2012年5月4日金曜日



皇室の起源(騎馬民族説に反論)(20120504)

  表題をラベル名とするシリーズの記事を書く。これはここ数日の投稿記事(ラベル「日本再生」)に関連するものである。また、過去にラベル「日本人の起源とヤマト王権」にも関連している。

 書店に歴史研究家たちの著作が並べられている。その題名が人の気を引き人々はそれを買って読み、納得するだろう。本が売れればその本を書いた人には収入がある。その本の著者は『古事記』『日本書紀』などの歴史書を解釈し、推論し、人々に自説を納得させようとする。人々はその著者の推論を信じ込み、それを真実の歴史と思い込む。そこに日本人のアイデンティティを危うくさせるものがあるので、その本が売れることは日本を貶めたい人々にとっては好都合である。日本を貶めたい隣国の指導層の対日戦略に、そのような‘お人好し’日本人はまんまと乗せられてしまうことだろう。

 歴史と歴史観とは違う。日本人は『古事記』や『日本書紀』に書かれている神代のことを歴史観として受け入れることが、日本人のアイデンティティを確かなものにするということを自覚するべきである。

 売れる歴史本を書いて、結果的に日本人のアイデンティティを見失わせ、まんまと隣国の対日戦略に乗せられてしまっている学識者や歴史研究家に対抗する歴史学者や歴史研究家はいる筈である。もしその人たちが日本人に正しい歴史観を抱かせるため役立つ本で、よく売れる本を書いてくれれば、隣国の対日戦略に対抗し、日本人の精神文化は守られることだろう。隣国は多くの日本人が考えているように決して善良ではない。道徳的に尊敬できるものではない。隙あれば日本を餌食にしようとしている。これが現実である。

 歴史学者上垣外憲一は『倭人と韓人』の中で瓊瓊杵尊が降り立った場所は鹿児島さつま市笠沙ではなく、福岡の宗像であり、瓊瓊杵尊が何処から来たかと言えば、それは韓国の加羅であると推論している。小沢一郎氏も韓国人も大喜びするような学説である。

『倭人と韓人』の著者・上垣外憲一はこの「笠沙」という地名を抜きにして、天皇の先祖が朝鮮半島から来たという推論の中で北九州には「笠沙」という地名は無いのに、天皇家の先祖は韓国・加羅から福岡の宗像にやってきたと主張している。馬鹿げたことである。

 このような本に対抗して瓊瓊杵尊が降り立った土地は『古事記』や『日本書紀』にあるとおり笠沙(『日本書紀』では笠狭)の御崎(みさき)、現在の鹿児島県さつま市笠沙町であることを一市井の無学な老人がアマチュア歴史研究家として推論しようと思う。この推論をより確かなものするような学識者や一般受けする本を書いてくれる歴史研究家が現れてくれること切に願っている。

 長江河口から日の出を見ながらその方向に進路を定めて舟を漕いで行くと鹿児島県薩摩半島に辿り着く。その地に長江中流下流域で稲作漁労文明を発達させていた民は、5000年前から2500年の間に世界的に起きた気候の寒冷期に北方で畑作牧畜を行っていた漢族のルーツにつながる民が南下し、稲作漁労の民は雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われた。長江流域の一部の民はボートピープルとなって海に逃れ、台湾や日本へ到達した。(参考:安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』(青春出版社))

 『古事記』『日本書紀』には瓊瓊杵尊が笠沙で地元の長から献上された姉妹のうち妹の木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ))『日本書紀』では木花開耶(さくや)姫)と結婚し、三人の子をもうけたこと、長男は隼人阿多君の祖となったこと、二男が「山幸彦」(『古事記』で火遠理命(ほをりのみこと))であること、その「山幸彦」は海の神の娘・豊玉姫と結婚したこと、その子が豊玉姫の妹・玉依姫と結婚して神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)後の神武天皇を生んだことなどが書かれている。なお、長男の「海幸彦」(『古事記』で火須勢理命(ほすせりのみこと))は後に天皇の守護人となって今に至るまで(『古事記』が書かれた時点まで)仕えていると書かれている。

 ここに、古代の天皇家の祖先が薩摩半島笠沙の地において、海人の長の娘を娶り政治的支配力を高めていった様子が見えてくる。その海人は長江中下流域からボートピープルとなって日本にやってきた人たちの末裔であろう。彼らはジャポニカ稲作と漁労・造船・航海の技術をもっていた。一方、これらの民より多分遅れて朝鮮半島経由で日本にやってきたであろう民は、長江中下流域から海岸伝い、あるいは漢族ルーツの民の圧迫を受け、或いは交流・混血しながら内陸伝いに北上して朝鮮半島を経由して日本にやってきた民でジャポニカ稲作文化だけではなく畑作文化・鉄器文化・牧畜文化も持っていたに違いない。

 この2つのルートで日本にやってきた民は何れも渡来系弥生人であり、縄文人と混血し、現在の日本人の祖先となった。北九州の王(ヒミコ=天照大神)の一族が宮崎で勢力を拡大し、海人族の協力を得て北九州の宇佐を経て大和盆地に向かう東征の旅に出たのだと思う。後世に「磐井の乱」があるが、これはヤマト王権が北九州王権を支配する形になったため起きたものではないかと思う。記紀は北九州王朝の歴史を取り込んだものではないかと思う。これは古田武彦著『日本列島の大王たち』(朝日文庫)に書かれていることを参考にしている。(続く)